人が壊れる瞬間って、だいたい「間に立たされたとき」だ。
上からは無茶を言われる。
下には頭を下げる。
しかも、昨日までの約束が今日ひっくり返る。
会社でもしんどいのに、これが戦国時代だったらどうなるか。
答えは、たぶん笑えない。
本能寺の変というと、どうしても「明智光秀の野望」で片づけたくなる。
でも、近年の研究で有力視されている「四国説」を見ると、話はそんなに単純じゃない。
光秀は、ただキレたわけではない。
もっとじわじわした、逃げ場のない違和感の中で追い詰められていった可能性が高い。
そして、その背後には光秀以上に立場を失っていた人物までいた。
本能寺の変は、裏切りというより、
壊れた調整役たちの末路だったのかもしれない。
その違和感の始まり
まず前提として、信長はずっと最初から長宗我部元親に厳しかったわけではない。
むしろ逆だ。
天正3年(1575)、長宗我部元親は四万十川の戦いで土佐一条氏を破り、土佐を統一した。
ここから四国全土を狙うわけだが、その動きを当初、信長は認めていた。
理由は実に戦略的だった。
当時の信長は、大坂本願寺との戦いで手を焼いていた。
しかも阿波の三好氏が本願寺を後方支援していた。
そこで信長は、元親に四国を攻めさせ、三好氏を叩かせようとしたのである。
天正6年(1578)10月には、元親による四国全土の攻略を容認し、嫡男には「信」の一字を与えて信親と名乗らせた。
この時点では、かなり前向きだ。
いわば「いいぞ、そのまま行け」である。
そして、その取次を務めていたのが明智光秀だった。
元親の妻は、光秀の重臣・斎藤利三の義理の妹にあたる。
その縁もあって、光秀が長宗我部家とのパイプ役になった。
ここまでは、まだいい。
問題はここからだ。
天正8年(1580)、本願寺との和睦が成立し、顕如が大坂を退去した。
さらに羽柴秀吉が播磨を、弟の秀長が但馬を平定し、淡路島も押さえたことで、播磨灘の制海権も信長側に傾く。
こうなると、信長にとって長宗我部の存在価値は変わる。
頼れる味方から、放っておくと大きくなりすぎる相手へ。
昨日の功労者が、今日の厄介者になる。
歴史は時々、会社より会社っぽい。
違和感の正体
この一連の違和感の正体。
それは、「約束をした側が、あとから平然と条件を変えること」だ。
信長は天正9年(1581)9月ごろ、光秀を通じて元親にこう伝える。
土佐は認める。
阿波は南半分で我慢しろ。
いやいや、である。
元親からすれば、3年前に四国全土を攻略してよいと言われ、その前提で戦ってきたのだ。
今さら「やっぱりそこまでね」と言われて、素直に納得する方が難しい。
当然、元親は抵抗する。
だが信長はさらに踏み込む。
最終的には三好康長に阿波一国を統治させる方針を決め、天正10年(1582)1月、光秀を通じて元親に「領国は土佐一国とせよ」と伝えさせた。
ここで光秀は完全に板挟みになる。
信長は次々に条件を変える。
元親は納得しない。
しかも、伝える役だけは自分だ。
これ、つらい。
自分が決めたことじゃない。
でも自分が説明しなければならない。
しかも双方から不信感を持たれる。
人間関係のストレスが濃縮還元されたような立場である。
本能寺の変の「四国説」が有力なのは、まさにこの構図があまりにも生々しいからだ。
光秀はただ反逆したのではなく、信長の無理筋と元親の反発のあいだで、立場も信用も削られていった。
その果てに、本能寺へ向かった可能性がある。
それは野望というより、破綻だ。
違和感になぜ気づけないのか
ただ、ここで一つ面白いのは、光秀がすでに信長に見限られていたとは言い切れないことだ。
むしろ逆の見方もある。
東京大学史料編纂所教授の金子拓氏は、光秀は本能寺の変の直前まで信長から信頼されていたと指摘している。
武田攻め、徳川家康らの接待、中国攻めへの出陣準備と、重要任務が続いていたからだ。
たしかに、信用していない相手をそこまで働かせるか、と言われれば微妙である。
でも、人は「現時点の信頼」だけで安心できるほど単純ではない。
光秀の脳裏には、おそらく佐久間信盛の追放があった。
信盛は織田家の筆頭家老であり、長年の功労者だった。
それでも天正8年(1580)に「十九条の折檻状」を突きつけられ、高野山に追放された。
しかもその折檻状では、丹波で功を立てた光秀や、秀吉の活躍が引き合いに出されていた。
このときは褒められる側だった。
だが、裏を返せば、明日は自分が責められる側に回るかもしれないということでもある。
これ、分かる人は分かるはずだ。
今日の上司はやたら褒めてくる。
でも、機嫌が変われば一気に切り捨てる。
そういう空気を一度でも味わうと、人は評価そのものより「いつ梯子を外されるか」の方が怖くなる。
光秀もまた、そんな緊張の中にいたのではないか。
つまり、違和感に気づけないのではない。
気づいていても、まだ大丈夫だと自分に言い聞かせるしかないのだ。
違和感は少しずつズレていく
そして、本当に怖いのはここからだ。
光秀以上に追い詰められていた人物がいた。
斎藤利三である。
利三は光秀の重臣であり、長宗我部元親とは縁戚関係にあった。
元親の妻が利三の義理の妹だったからだ。
つまり、信長と元親をつなぐ交渉の回路には、光秀だけでなく利三も深く関わっていた可能性が高い。
信長の四国政策が変更される。
元親の立場が崩れる。
そうなると、利三の顔も立たない。
いや、顔どころか存在意義そのものが揺らぐ。
しかもその最中、信長は元親征伐を兼ねた四国出兵を決定する。
総大将は三男・信孝。
出兵予定日は6月3日。
つまり、本能寺の変の翌日だ。
これはもう、光秀にとっても利三にとっても、完全に逃げ道がない。
交渉は失敗。
説得も空回り。
そのうえ武力侵攻まで始まる。
「もうどう取り繕っても無理です」という状況は、人を冷静にはしてくれない。
むしろ、静かに壊す。
実際、本能寺の変のあと、観修寺晴豊や山科言経ら公家たちは、捕らえられて市中を引き回される斎藤利三を見て、「彼こそが変の首謀者だ」という趣旨のことを日記に記している。
もちろん、これで真犯人確定という話ではない。
ただ重要なのは、当時の公家たちが「利三こそ怪しい」と感じるだけの背景を共有していたことだ。
つまり本能寺の変は、光秀ひとりの突発的な反乱というより、
長宗我部問題をめぐって立場を失った者たちの連鎖的な崩壊として見られていたのである。
違和感とどう向き合うか
この話、戦国時代の事件として読むだけでも十分面白い。
でも、それだけで終わるともったいない。
本能寺の変の四国説が刺さるのは、「約束を変えた側」ではなく、「そのしわ寄せを全部受けた側」の苦しさがよく見えるからだ。
信長は合理的だった。
元親は引けなかった。
光秀は間にいた。
利三はさらに深く巻き込まれていた。
誰かひとりだけを悪役にすると、話は分かりやすい。
でも現実の人間関係って、だいたいそうじゃない。
立場。
面子。
沈黙。
返事の来なさ。
昨日まで通っていた話が、今日から通らなくなる違和感。
そういう小さなズレが、ある日いきなり大事件になる。
だから、人間関係で本当に怖いのは、露骨な敵意ではない。
「まだ何とかなるだろう」と放置された違和感の方だ。
今日からできる小さな一歩があるとすれば、
板挟みになっている相手を見たとき、「あの人の説明が下手なんだろう」で済ませないことだ。
その人は無能なのではなく、
無茶な構造の真ん中に立たされているだけかもしれない。
そこを想像できるかどうかで、人の見え方はかなり変わる。
本能寺の変の首謀者は誰か。四国説で読む明智光秀と斎藤利三の違和感|まとめ
本能寺の変は、光秀の野望だけで説明すると、どこか薄い。
四国説で見ると、
信長の手のひら返し、
元親との対立、
その間で立場を失った光秀、
さらに追い詰められた利三、
という、かなり人間くさい地獄絵図が浮かんでくる。
歴史はときどき、
英雄譚よりも、
「間に立たされた人の胃痛」の方が真実味を持つ。
本能寺の変とは、天下取りのドラマというより、
違和感を押し込め続けた先で起きた、大規模な人間関係の破裂音だったのかもしれない。



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