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明智光秀はなぜ裏切った?本能寺の変の動機と違和感

心理・思考

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「結局、明智光秀はなぜ織田信長を裏切ったのか」

歴史好きが集まると、だいたい一度はこの話になる。

信長に恨みがあった。

長宗我部を守ろうとした。

足利義昭や朝廷に頼まれた。

天下を取りたかった。

話す人の数だけ黒幕が増え、最後には戦国時代の主要人物がほぼ全員、共犯者のようになる。

本能寺、共犯者用の会議室でもあったのか。

だが、最初に少し残念なことを言う。

光秀の本当の動機は、分からない。

私は光秀の生まれ変わりではない。

恐山のイタコでもない。

光秀本人が「信長を討った理由はこの三つ」と書き残した企画書も発見されていない。

だから、単独の原因を断定するのは危ない。

ただし、何も考えられないわけではない。

光秀の経歴。

変直前の織田政権。

信長と信忠が京都にいた状況。

四国政策の変更。

変後に光秀が行った味方集め。

それらを並べると、一つの人間くさい構図が見えてくる。

光秀は追い詰められていた可能性がある。

同時に、目の前には二度と来ない好機が開いていた。

もっと生々しく言えば、

「このまま信長の下にいれば、いつ捨てられるか分からない。だが、今なら信長と信忠を同時に討てる。成功すれば、自分が次の権力者になれるかもしれない」

そう判断した可能性だ。

本能寺の変の違和感の正体は、絶望だけで起こした反乱に見えて、実はかなり冷静な勝負でもあったことにある。

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その違和感の始まり

光秀は、最初から織田家の重臣だったわけではない。

むしろ前半生は、はっきりしない部分が多い。

美濃の土岐氏につながる人物だったともいわれるが、出自や若い頃の経歴には不明点が残る。

よく「越前の朝倉義景に仕えた」と説明されるものの、光秀が正式な朝倉家臣だったと断定できる同時代史料は乏しい。

その後、光秀は足利義昭の上洛に関わり、義昭と信長の双方に属するような立場で働いた。

やがて義昭と信長が対立すると、光秀は信長の家臣として頭角を現す。

結果だけ見れば、驚くほど見事なキャリアアップだ。

身分の高くない立場から、坂本城を与えられ、丹波一国を任される大名まで上り詰めた。

戦国時代の転職王。

転職サイトがあれば、成功事例の一番上に光秀のインタビューが載る。

「御社を選んだ決め手は、成長性です」

などと言っていそうで少し嫌だ。

ただ、この経歴から「光秀は節操のない日和見主義者だった」とまで断定するのも乱暴だ。

権力構造が激しく変わる戦国時代に、誰に仕え、どこで生き残るかを判断するのは武将の能力でもあった。

少なくとも光秀には、状況を読み、自分の価値を高く評価する権力者へ移る判断力があった。

そして、その判断は何度も当たった。

義昭から信長へ。

小身から大名へ。

光秀の人生は、危険な乗り換えに成功し続けた歴史でもある。

だからこそ最後にも、

「今回も、自分の判断は当たる」

と思った可能性がある。

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違和感の正体

本能寺の変の動機を考えるとき、怨恨説だけでは足りない。

信長に叱られた。

人前で恥をかかされた。

領地を取り上げられそうになった。

母親を見殺しにされた。

こうした逸話は有名だが、後世に成立したものや、史料的な裏づけが弱いものも多い。

もちろん、信長に対する不満がなかったとは言えない。

人間なので、腹が立つことくらいあっただろう。

だが、怒られた程度で一万を超える軍勢を動かし、主君とその嫡男を襲うのは話が飛びすぎる。

会社の会議で叱られた翌日に、本社を戦車で包囲するようなものだ。

動機としては燃料不足である。

そこで見えてくるのが、

・自分の将来に対する不安

・信長の政策変更による立場の悪化

・天下を狙えるほどの絶好機

この三つだ。

四国政策をめぐる問題は、その一つだった。

光秀は長宗我部元親との取次を務めていた。

ところが信長は、それまで認めていた元親の四国攻略を制限する方向へ政策を変え、最終的には四国征伐の軍を準備した。

光秀は、長宗我部側に信長の要求を伝える立場だった。

自分がつないできた関係が、主君の方針変更で壊される。

積み上げた信用も面目も削られる。

さらに、その交渉が失敗すれば、責任を問われる可能性まである。

現在、四国政策の転換は本能寺の変を考えるうえで重要な背景の一つとされている。ただし、これだけで光秀の動機がすべて説明できるわけではなく、研究者の見解も一致していない。 

光秀には光秀の世界があった。

朝廷や公家との関係。

丹波で築いた支配。

長宗我部との外交。

家臣団。

娘を嫁がせた細川家との縁。

しかし信長は、その世界を上から簡単に組み替える。

昨日まで重要だった人脈が、今日には不要になる。

昨日まで功臣だった者が、明日には追放される。

その怖さを、光秀は間近で見ていた。

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違和感になぜ気づけないのか

光秀の不安を象徴する人物として、佐久間信盛がいる。

信盛は織田家に長く仕えた宿老で、家中でも有力な立場にあった。

ところが石山本願寺との戦いが終わった天正8年、信長から十九条に及ぶ折檻状を突きつけられ、嫡男とともに追放された。

長年の功績があっても、安全とは限らない。

昨日まで中枢にいた人間でも、信長が「役に立たない」と判断すれば切られる。

その事実は、光秀にとって他人事ではなかったはずだ。

ただし、ここには反対材料もある。

本能寺の変直前の光秀は、武田氏攻め、徳川家康の接待、中国方面への出陣など、重要な役目を次々に与えられていた。

つまり、信長から完全に信用を失っていたとは考えにくい。

史料を重視する研究では、光秀は変の直前まで信長に重用されていたという見方が示されている。 

ここが人間関係のややこしいところだ。

重用されていることと、安心していることは別だ。

仕事を次々に任される。

評価もされている。

だが、少し失敗すれば突然切られるかもしれない。

そんな上司の下では、褒め言葉すら安心材料にならない。

「期待しているぞ」

と言われながら、心の中では、

「期待に応えられなくなった瞬間、どうなる?」

と考えてしまう。

強い主君は頼もしい。

しかし、強すぎる主君は恐ろしい。

昨日まで褒められていた。

今日は叱責される。

明日は領地や役目を変えられる。

その翌日には、積み上げたすべてを失うかもしれない。

光秀ほど先を読む人物なら、その危険を感じていた可能性はある。

だが、不安だけでも人は謀反を起こさない。

逃げる。

耐える。

引退する。

別の方法もある。

本能寺の変を起こした最後の条件は、

「今なら勝てる」

だったのではないか。

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違和感は少しずつズレていく

天正10年6月。

信長は少数の供回りとともに京都の本能寺にいた。

嫡男の信忠も、近くの妙覚寺に宿泊していた。

羽柴秀吉は中国地方。

柴田勝家は北陸。

滝川一益は関東方面。

織田家の主力軍は畿内から離れている。

一方、光秀は中国方面への出陣を命じられ、丹波亀山城に軍勢を集めていた。

信長と信忠。

織田政権の前当主と現当主が、同時に京都にいる。

しかも大軍を連れていない。

近くでまとまった兵力を動かせるのは光秀。

普通なら、一生に一度も来ない状況だ。

信長だけを討っても、信忠が生きていれば織田家はすぐにまとまる。

光秀は反逆者として包囲される。

だが、信長と信忠を同時に消せば、織田家の指揮系統は一時的に崩れる。

その間に京都、近江、丹波を押さえ、周辺勢力を味方につければ、生き残れるかもしれない。

さらに展開次第では、自分が天下の主導権を握れる。

これは後世から見れば無謀に見える。

私たちは結果を知っているからだ。

秀吉が驚異的な速さで中国地方から戻る。

山崎の戦いで光秀が敗れる。

逃走中に命を落とす。

その結末を知っているため、

「そんな計画、成功するわけがない」

と思ってしまう。

だが、光秀は未来の歴史教科書を読んでいない。

秀吉の中国大返しも知らない。

細川藤孝・忠興親子が加勢を拒むことも知らない。

筒井順慶が明確に味方しないことも知らない。

リアルタイムの光秀から見れば、危険ではあるが、勝負に値する機会だった可能性がある。

実際、襲撃そのものには成功した。

信長と信忠は死亡した。

光秀の第一段階の判断は当たっている。

問題は、その先だった。

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光秀は「信長を倒した後」を読み違えた

光秀にとって大きな誤算は、近しい武将たちが動かなかったことだ。

とりわけ細川藤孝・忠興親子の不参加は痛かった。

藤孝は、足利義昭に仕えていた頃から光秀と関係が深い。

忠興の妻は光秀の娘・玉、のちの細川ガラシャ。

光秀からすれば、最も味方する可能性が高い家だったはずだ。

だが、細川家は光秀に加担しなかった。

藤孝は剃髪して信長への弔意を示し、光秀との距離を明確にした。

筒井順慶も、光秀の期待どおりには動かなかった。

光秀が援軍を求めながら、細川氏や筒井氏を味方にできなかったことは、政権構想を崩す大きな要因となった。 

光秀は、信長を倒す方法は読めた。

しかし、信長を倒した自分を、周囲がどう見るかを読み切れなかった。

信長の重臣。

信長に抜擢された人物。

その光秀が、恩人である主君を突然討った。

近隣の武将からすれば、

「この人に乗って本当に大丈夫か」

となる。

光秀本人は、信長から天下を奪う合理的な勝負だと考えたかもしれない。

だが、周囲から見れば、主君を闇討ちした危険人物である。

この温度差が致命傷になった。

会社で社長を追い出し、

「今日から私が社長です。古い仲間だから当然ついてきますよね」

と言われても、少し待ってほしい。

まず法務部を呼ぶ。

そういう話だ。

そして秀吉は、光秀の想定を超える速さで戻ってきた。

光秀は、信長の隙を正確に読んだ。

だが、秀吉の速さと、人間が味方してくれない怖さを読み違えた。

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違和感とどう向き合うか

では、本能寺の変の動機は何だったのか。

私は、単独の理由ではなく、複数の要因が重なったと考えるのが自然だと思う。

信長への不満。

四国政策をめぐる立場の悪化。

佐久間信盛の追放を見た将来への不安。

自分や明智家が使い捨てられる恐怖。

信長のやり方への反発。

そして、天下を狙える野心。

最後に背中を押したのは、

「今なら討てる」

という状況だった。

恨みだけでもない。

正義だけでもない。

恐怖だけでもない。

野心だけでもない。

これらが本能寺という一つの場所で重なった。

そのとき光秀は、座して信長に将来を決められるより、自分で勝負する道を選んだ。

それは成功する可能性のない自殺行為ではなかった。

信長と信忠を討つ部分には成功した。

細川や筒井が味方し、秀吉の帰還が遅れていれば、その後の歴史が変わった可能性も否定できない。

ただし、ここで光秀を近代的な革命家のように美化するのも違う。

光秀は武将だ。

戦争を指揮し、人を殺し、領地を支配する側にいた。

教養人であることと、非暴力的な常識人であることは同じではない。

戦国武将は現代の会社員ではない。

「隙があれば権力を奪う」という発想は、彼らの政治世界の中に普通に存在した。

光秀も例外ではなかった。

信長に忠実に仕え、成果を上げ、出世した。

だが、主君が致命的な隙を見せ、自分の未来も不透明になった。

そこで、武将としての勝負を選んだ。

本能寺の変とは、

「強すぎる主君のそばで、自分の未来が消えると感じた男が、一瞬だけ開いた権力の穴へ飛び込んだ事件」

だったのかもしれない。

だが、その穴の向こうに、光秀の国はなかった。

この話は、現代の人間関係にも少しつながる。

強い上司の下で評価されていても、安心できない。

昨日と今日で方針が変わる。

自分が築いた信用が、上の判断一つで壊される。

頑張るほど役目が増え、失敗すればすべて自分の責任になる。

そんな環境では、人は少しずつ追い詰められる。

もちろん、上司を討てという話ではない。

それをやったら、現代では普通に事件である。

大切なのは、

「まだ評価されているから大丈夫」

だけで、自分の違和感を消さないことだ。

今日からできる小さな一歩は一つ。

今いる場所について、紙に二つ書く。

「ここに残るリスク」

「ここを離れるリスク」

恐怖だけで残っていないか。

一瞬の怒りだけで飛び出そうとしていないか。

両方を見る。

光秀は、信長を討つリスクを考えたはずだ。

だが、討った後に人が動かないリスクを十分には読めなかった。

人生の大きな決断では、

「嫌な相手をどうするか」

より、

「その後、誰と何を作るか」

まで考える必要がある。

壊す計画だけでは、次の世界はできない。

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明智光秀はなぜ裏切った?本能寺の変の動機と違和感|まとめ

光秀の本当の動機は分からない。

今後も、決定的な史料が発見されない限り断定はできない。

ただ、怨恨だけで説明するのは難しい。

光秀には将来への不安があった可能性がある。

四国政策の変更で立場を傷つけられた。

佐久間信盛の追放を見て、功臣でも安全ではないと知っていた。

同時に、信長と信忠を一度に討てる千載一遇の機会が訪れた。

そこに野心が重なった。

だから動いた。

信長を討つところまでは成功した。

だが、その後に誰が味方し、どのような政権を作るのか。

そこを読み切れなかった。

光秀は信長の隙を見抜いた。

しかし、秀吉の速さと、人間の慎重さを見誤った。

本能寺の変は、ただの裏切りではない。

恐怖と野心と機会が、同じ夜に重なった勝負だった。

光秀は、閉じていく未来から逃れるため、一瞬だけ開いた穴へ飛び込んだ。

その判断は完全な無謀ではなかった。

ただ、穴の向こうには天下ではなく、誰も味方しない十三日間が待っていた。

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