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メンヘラ母の「こんな私でごめんね」に感じる違和感と心理

親子関係・家族問題

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親に謝られたはずなのに、なぜかこちらが苦しくなることがある。

「こんな私でごめんね」
「許してね」

一見、弱々しい謝罪。

だけど聞いた瞬間、胸の奥に小さな引っかかりが残る。

「かわいそう」と思う前に、

「ああ、また私がフォローしないといけないのか」

そう感じてしまう。

この感覚。

かなり大事だ。

私は以前、感情の波が激しい恋人と付き合って、なかなか痛い目を見たことがある。

なので、こういう言葉には少し敏感だ。

いや、少しどころではない。

心の中で警報が鳴る。

ウーウー。

非常口はこちらです。

この手の言葉は、返し方を間違えると、いつの間にか相手の感情処理係にされる。

だから慎重にいきたい。

母に、

「こんな私でごめんね。許してね」

と言われたとき。

私ならこう返す。

「そっか、お母さんも大変だね」

これくらいでいい。

冷たいようで、実はかなり大事な距離感だ。

この違和感の正体は、母を嫌いになったことではない。

親を見捨てたい気持ちでもない。

「謝罪の形をした、感情の肩代わり」に巻き込まれそうになっているサインだ。

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その違和感の始まり

たとえば、母が落ち込んだ顔で言う。

「こんな私でごめんね」

「許してね」

声は弱い。

表情もつらそう。

こちらを責めているようには見えない。

むしろ、自分を責めているように見える。

だから、子ども側は迷う。

ここで責めたら、自分が悪者みたいになる。

「そんなことないよ」

「お母さんは悪くないよ」

「気にしないで」

そう言ってあげた方がいい気がする。

親子関係というものは、ただでさえややこしい。

職場の上司なら、

「それは具体的に何についての謝罪ですか?」

と冷静に返せるかもしれない。

いや、実際に言ったら会議室が氷河期になるが、少なくとも構造は見える。

でも相手が母だと、急に難しくなる。

母が苦しそうにしている。

自分を責めている。

泣きそうになっている。

その姿を見ると、こちらの中の小さな子どもが顔を出す。

「お母さんを助けなきゃ」

「お母さんを安心させなきゃ」

「私がちゃんと受け止めなきゃ」

このスイッチが入る。

そして気づけば、謝罪を受け取る側だったはずの自分が、母を慰める側に立っている。

ここが怖い。

最初は母が謝っていた。

でも数秒後には、自分が母を励ましている。

話の主役がすり替わっている。

まるで手品だ。

ハンカチが鳩になるくらい自然に、被害者とケア係が入れ替わる。

この瞬間に感じるモヤモヤ。

それが、今回の違和感の始まりだ。

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違和感の正体

違和感の正体。

それは、

「謝罪ではなく、自己否定を差し出されていること」

だ。

普通の謝罪には、最低限の骨格がある。

「何をしたのか」
「何が悪かったのか」
「次からどうするのか」

この三つだ。

たとえば、

「昨日、あなたの話を最後まで聞かずに怒鳴ってしまってごめん。次からは一度落ち着いてから話すようにする」

これは謝罪として分かりやすい。

行動がある。

問題点がある。

改善の方向がある。

もちろん、これで全てが解決するわけではない。

でも少なくとも、話の中心は「起きた出来事」にある。

一方で、

「こんな私でごめんね」
「許してね」

には、それがない。

何をしたのかがない。

何が悪かったのかもない。

どう変えるのかもない。

あるのは、

「こんな私」

という大きな塊だけだ。

行動ではなく人格。

出来事ではなく感情。

問題ではなく自己否定。

ここがポイントだ。

この言葉は、謝罪に見えて、実は相手にこう迫っている。

「私はダメな人間だよね?」
「でも、そんな私を見捨てないでね?」
「あなたは私を許してくれるよね?」

こうなると、子ども側は逃げにくい。

「いや、何について謝っているの?」

とは言いにくい。

「そんな私とか言われても困る」

とも言いにくい。

結果として、

「そんなことないよ」

を言わされる。

これがしんどい。

もちろん、母が意図的に操作しているとは限らない。

本人も本当に苦しいのかもしれない。

罪悪感でいっぱいなのかもしれない。

自己肯定感が低く、自分を責める言い方しかできないのかもしれない。

そこは決めつけない方がいい。

ただし、ここだけは分ける必要がある。

母が苦しいこと。

子どもが母の苦しみを背負うこと。

これは別問題だ。

母の痛みを理解することと、母の人生の責任者になることは違う。

ここを混ぜると、親子関係は静かに沈んでいく。

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違和感になぜ気づけないのか

この違和感に気づきにくい理由は、親子関係には「優しさ」の名を借りた我慢が入り込みやすいからだ。

母が弱っている。

母が泣いている。

母が自分を責めている。

そうなると、子ども側は反射的に動いてしまう。

「大丈夫だよ」

「私こそごめん」

「お母さんは悪くないよ」

こう言えば、その場は丸く収まる。

母も少し落ち着く。

空気も一応やわらぐ。

でも、自分の中には何かが残る。

疲れ。

重さ。

息苦しさ。

小さな不信感。

「あれ、私は何をしていたんだろう」

という感覚。

本当は、自分にも言いたいことがあった。

傷ついたことがあった。

苦しかったことがあった。

でも、母が先に崩れてしまったから、言えなくなった。

母の感情が大きすぎて、自分の本音がテーブルの端から落ちる。

落ちた本音は、だいたい拾われない。

そして後日、また同じことが起きる。

母が落ち込む。

子どもが慰める。

母が少し安心する。

子どもが疲れる。

この流れが続くと、親と子の役割が逆転する。

親が子どもに寄りかかる。

子どもが親の感情を支える。

親が不安定になるたびに、子どもが空気を読む。

気づけば、子どもが母のカウンセラーになっている。

ただし、給料は出ない。

福利厚生もない。

有給もない。

なかなかブラックな部署だ。

親子だから支え合うことはある。

それ自体は悪くない。

でも、子どもが一方的に親の感情を管理し続ける関係は、かなりしんどい。

そのしんどさを、

「親なんだから」
「家族なんだから」
「私が冷たいだけかも」

で押し込めると、自分の心が少しずつすり減る。

違和感は、冷たさではない。

自分の境界線が踏まれかけている時に鳴る、小さな防犯ブザーだ。

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違和感は少しずつズレていく

この関係を放置すると、会話のたびに責任の場所がズレていく。

本来なら、母の感情は母のものだ。

母が寂しい。

母が苦しい。

母が不安。

母が自分を責めている。

それは母の中で起きていることだ。

もちろん、子どもが優しく聞くことはできる。

寄り添うこともできる。

一緒に考えることもできる。

でも、解決する責任までは持てない。

ところが、

「こんな私でごめんね。許してね」

という言葉が繰り返されると、子ども側はだんだんこう感じる。

私が安心させないといけない。

私が許さないと母が壊れる。

私が冷たくしたら母が傷つく。

私が母を支えなければいけない。

これが、かなり危ない。

優しさの顔をした拘束になる。

最初は「かわいそう」だったものが、いつの間にか「義務」になる。

さらに進むと、自分の感情を出すことが怖くなる。

怒れない。

悲しめない。

距離を置けない。

母を不安にさせることを言えない。

自分がつらい時でさえ、母を気遣う。

そしてある日、ふと思う。

「私は誰の人生を生きているんだろう」

これは大げさではない。

親の感情を背負い続けた人は、自分の本音が分からなくなることがある。

何が好きなのか。

何が嫌なのか。

どこまでなら許せるのか。

本当は何をしたいのか。

全部、母の顔色の奥に隠れてしまう。

母が悪人だと言いたいわけではない。

母にも母の傷がある。

孤独がある。

不安がある。

人生の中で抱えてきたものがある。

でも、それを子どもに丸ごと渡していい理由にはならない。

親の苦しみは、子どもへの相続財産ではない。

ましてや、感情のローンを勝手に組まされる筋合いもない。

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違和感とどう向き合うか

では、母に

「こんな私でごめんね。許してね」

と言われたら、どう返せばいいのか。

私は、

「そっか、お母さんも大変だね」

これでいいと思っている。

この返しのいいところは、二つある。

まず、母の苦しみを否定していない。

「そんなこと言わないで」
「大丈夫だよ」
「お母さんは悪くないよ」

とは違う。

母が大変そうであることは認めている。

苦しいんだろうな、という事実は受け止めている。

でも同時に、こちらが救命ボートになりすぎない。

「私が救うよ」

とは言っていない。

「全部許すよ」

とも言っていない。

「あなたの感情を私が処理します」

とも言っていない。

これが大事だ。

少し冷たく聞こえるかもしれない。

でも、親子関係に必要なのは、いつも熱々の優しさではない。

ぬるめの距離感が人を救うこともある。

熱湯みたいな優しさは、浴び続けるとやけどする。

他にも使える返しはある。

「そう思うくらい、つらかったんだね」

「今は何について謝っているのか、少し整理して話せる?」

「私は責めたいわけじゃないけど、私の気持ちも少し聞いてほしい」

「許すかどうかは今すぐ決められない。でも話は聞く」

このあたりだ。

ポイントは、すぐに慰め役へ飛び込まないこと。

母が自己否定を出してきたからといって、反射的に打ち消さない。

「そんなことないよ」は、優しいようでいて、相手の感情処理をこちらが引き受ける合図になりやすい。

もちろん、毎回完璧に返せなくていい。

親との会話で毎回100点を取ろうとすると、それだけで疲れる。

最初の一歩は小さくていい。

今日からできることは一つだけ。

母に重い言葉を投げられたら、すぐに慰めず、心の中で一度だけこう確認する。

「これは私が背負うものか?」

それだけでいい。

その一拍が、境界線になる。

親子関係や家族の悩みは、身近な人ほど話しづらい。

親を悪く言っているみたいで罪悪感が出る。

でも、ひとりで抱えるほど、話は大きくなる。

誰かに話して整理するだけでも、自分が本当は何に傷ついていたのか見えてくることがある。

また、親子関係の境界線について本で整理するのもありだ。

感情で親を責めるためではない。

自分の人生と、親の人生を切り分けるための読書だ。


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「メンヘラ母の『こんな私でごめんね』に感じる違和感と心理」|まとめ

母に、

「こんな私でごめんね。許してね」

と言われる。

その言葉にモヤモヤする。

この違和感は、親不孝だから生まれるものではない。

冷たい人間だからでもない。

その言葉が、謝罪の形をしながら、こちらを慰め役に回そうとしているからだ。

本来の謝罪には、

何をしたのか。

何が悪かったのか。

次からどうするのか。

この三つがある。

でも、

「こんな私でごめんね」

にはそれがない。

行動ではなく人格。

問題ではなく感情。

話の中心が、起きた出来事から「母の自己否定」へ移ってしまう。

そして子どもは、

「そんなことないよ」

を言わされそうになる。

もちろん、母が苦しいことはある。

本当に罪悪感でいっぱいなのかもしれない。

自分を責める言い方しかできないのかもしれない。

でも、母が苦しいことと、その苦しみを子どもが背負うことは別だ。

ここは分けていい。

いや、分けた方がいい。

返事はシンプルでいい。

「そっか、お母さんも大変だね」

母の苦しみは受け止める。

でも、母の人生までは引き受けない。

優しくしてもいい。

でも、背負わなくていい。

親子だからこそ、距離が必要なことがある。

近すぎると、愛情も責任も罪悪感も、全部ぐちゃぐちゃになる。

相手の感情を理解する。

でも、相手の人生までは引き受けない。

それが、長く関係を続けるための健全な距離感だ。

そして今日からできる小さな一歩。

重い言葉を投げられたら、すぐに返事をしない。

心の中で一拍置く。

「これは私が背負うものか?」

そう聞いてみる。

その一秒が、あなたを守る。

親を突き放すためではない。

親の海に沈まないためだ。

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