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魔女の宅急便の違和感の正体|先輩魔女が示す都会の現実

映画・作品考察

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人はたいてい、自分より少し先にいる人に弱い。

すごく遠い成功者ではない。

同じ世界にいるのに、ほんの一歩だけ先にいる人。

その距離感がいちばん危ない。

自分にも届きそうだからだ。

届きそうに見える。

届けるような気がする。

そして、相手が立っている場所の地面がぬかるんでいることには、だいたい後から気づく。

『魔女の宅急便』の序盤に出てくる先輩魔女は、まさにそういう存在だ。

綺麗だ。

上手い。

余裕がある。

一人で生きている。

キキが「いいなあ」と言ってしまうのも無理はない。

ただ、あのシーンには妙な引っかかりがある。

うまく説明できない。

でも、どこか少し寒い。

その違和感は、風のせいじゃない。

その違和感の始まり

キキは旅立ったばかりだ。

自分の街を探しに、夜の空を飛んでいる。

まだ飛び方も不安定で、箒の進路を変えるにも体を傾けなければならない。

言ってしまえば、初心者である。空の上の若葉マークだ。

そこに現れるのが、きれいな先輩魔女。

キキより一年先輩。

得意な占いを生かし、恋占いなどをしながら自活している。

しかも、もうすぐ修行が明けて故郷に帰るらしい。

この時点で、もう強い。

「一人で食べていける」

「ちゃんと都会でやれている」

「しかも帰る頃には余裕まである」

中学生くらいの子が見たら、だいたい憧れる要素が揃っている。

大人が見ても、ちょっと「この人、できるな」と思う。

そして動きが美しい。

キキが体ごと傾けて進路を変えるのに対して、先輩魔女は違う。

箒にまたがったまま、足首だけでクイッ、と向きを変える。

予備動作もない。

「空を飛ぶ」というより、「空を使いこなしている」。

そのうえで、別れ際。

「じゃあね」

そう言って、スイッとキキの反対側に回り込み、

「あなたもがんばってね」と声をかけながら、自分の街へ降りていく。

キキは「いいなあ」と言う。

そりゃそうだ。

この先輩、上手いし、綺麗だし、自立してるし、励ましてまでくれる。

十三歳の少女にとっては、ほぼ“未来の理想像”である。

ただし問題は、彼女そのものより、彼女が降りていく街のほうにある。

違和感の正体

あの街は、小さい。

なのに、やたらとネオンが多い。

しかも、街の中央。

先輩魔女の箒の下あたりに、風車がある。

しかも赤いネオンで光っている。

これ、なんとなく描いた背景ではない。

「なんかオシャレだからネオン増やしとくか」みたいな雑な話ではない。

絵コンテには、ちゃんと「赤い風車のネオン」と指定があるという。

つまり、意図がある。

そして、赤いネオンで輝く風車と聞いて連想される場所は、ほぼ一つしかない。

パリのムーラン・ルージュ。

今でこそ有名観光地の顔もあるが、1950年代、60年代、宮崎駿の青春時代の感覚で見れば、もっと生々しい意味を帯びる場所だ。

上品な夜の文化施設というより、もっと猥雑で、もっと俗っぽく、もっと「大人の街」の匂いがする。

乱暴に言えば、“世界の歌舞伎町”である。

つまり、あの街はただのファンタジー都市ではない。

華やかな夜の街。

子ども向けには綺麗な背景。

大人向けには「わかるでしょ」というサイン。

その違和感の正体は、憧れの背景にある“都会の現実”だ。

ここで重要なのは、作品がそれを台詞で説明しないことだ。

「この街は危険です」

「この先輩は苦労しています」

そんな親切な字幕は出ない。

ただ、赤い風車を置く。

ネオンを増やす。

ゆっくり降下させる。

観る側が拾えるなら拾ってください、という作りになっている。

宮崎駿の「わかるでしょ」は、だいたい優しくない。

でも、そこがうまい。

なぜ気づけないのか

キキが気づかない理由は単純だ。

若いから。

純粋だから。

田舎から出てきたばかりだから。

でも、それだけではない。

先輩魔女のほうもまた、“見せない”のである。

彼女は恋占いをしている。

アクセサリーもつけている。

ピアスもしている。

少し大人びていて、少し艶っぽい。

これをただ「おしゃれな先輩」と見ることもできる。

実際、子どもならそのままそう受け取るだろう。

けれど大人が見ると、別の意味が立ち上がる。

恋愛を相手にする商売。

ネオンの街。

赤い風車。

大人びた装い。

ここから先の解釈は断定ではなく、あくまでかなり踏み込んだ読みになる。

だが、少なくとも「都会の夜の空気に適応した女性」として描かれているのは確かだろう。

つまり彼女は、ただ魔法が上手い先輩ではない。

都会で、女として、一人でやっていくための処世を身につけた存在でもある。

そして、あの一言。

「あなたもがんばってね」

この台詞が、妙に軽い。

軽いというより、軽くしている。

本当は軽くないものを、軽く聞こえるようにしている声だ。

もうすぐ帰れる。

やっと一年が終わる。

その解放感があるから、明るく言える。

逆に言えば、その明るさは“やせ我慢”でもある。

ここがしんどい。

キキは、その声援の重さに気づかない。

ただ「優しい先輩だな」と受け取る。

それはたぶん、田舎の女子中学生が、都会でキラキラして見える少し年上の女性に憧れる感覚に近い。

写真では華やか。

投稿では楽しそう。

でも、その生活のしんどさや、無理して笑っている夜までは見えない。

人間関係でもよくある。

うまくやってる人ほど、実は見せ方がうまい。

そして見ている側は、演出された表面に自分の理想を貼りつける。

違和感は、そこに生まれる。

少しずつズレていく

『魔女の宅急便』は、一見するとやさしい映画だ。

パン屋のおそのさんは親切だし、

街の人たちも基本的には善良だし、

最後はちゃんと希望のある着地をする。

だから油断する。

でもこの作品は、古い昔話ではない。

「魔法があるから、一人でも楽しく暮らせます」という、ふわふわした自立礼賛でもない。

ジブリが出している『ジブリの教科書』で、宮崎駿は

「これは架空の国に魔女が出てくる架空の話ではない。現代の社会で女性が遭遇するであろう話を描くんだ」

という趣旨をはっきり述べている。

つまりこれは、1980年代、バブル期の日本で、

若い女の子が一人で都会に出てきたとき、何が起こるかという話でもある。

華やかな街には、リスクがある。

自由には、値段がつく。

自立には、孤独がついてくる。

それでも物語はハッピーエンドに向かう。

だからこそ、その途中に差し込まれる現実の影が効く。

綺麗事だけでは終わらない。

でも、説教もしない。

この塩梅がいやらしいほど上手い。

先輩魔女がゆっくり街に降りていく場面を、子どもは「かっこいい」と見る。

大人は「落ちていく」と見ることもできる。

この二重構造が、ものすごく嫌らしくて、ものすごく賢い。

宮崎駿は、子どもの夢を壊さない。

でも、大人には現実を見せる。

ファンタジーの顔をしたまま、現実を通してくる。

だいぶ性格がいい作り手のやることではない。

いや、最高である。

どう向き合うか

この場面をどう受け取るかに正解はない。

「いや、そこまで深読みしなくてもいいのでは」と思う人もいるだろう。

それもわかる。

ただ、一つだけ確かなことがある。

作品は、わざわざ違和感を置いている。

赤い風車。

ネオン。

先輩魔女の装い。

軽すぎる声援。

気づかないキキの憧れ。

これだけ揃っていて、「たまたまです」は、だいぶ苦しい。

だから大事なのは、断定することより、引っかかることだ。

何かおかしい。

なぜだろう。

この明るさは、ほんとうに明るいだけなのか。

そうやって立ち止まる癖を持つこと。

それは映画の見方に限らない。

人間関係も同じだ。

やたら完璧に見える人。

やたら余裕があるように見える環境。

やたら楽しそうな世界。

そこに違和感があるなら、たぶん何かある。

もちろん全部が罠ではない。

世の中には本当に楽しそうな人もいる。

でも、世の中には“楽しそうに見せるのが上手い人”もわりといる。

後者がSNSと出会うと、だいたい手がつけられない。

だから、違和感は雑に扱わないほうがいい。

それは臆病さではない。

自分の感覚が出している、小さな警報だ。

魔女の宅急便の違和感の正体|まとめ

キキが見たのは、自由で美しい先輩魔女だった。

大人が見てしまうのは、その背後にある街の匂いだ。

赤い風車。

ネオン。

恋占い。

軽すぎる「がんばってね」。

その全部が重なったとき、あのシーンはただの出会いではなくなる。

憧れの場面に見せかけた、現実の導入部になる。

そしてたぶん、これが『魔女の宅急便』の怖さであり、うまさだ。

子どもには夢を。

大人には現実を。

両方同時に渡してくる。

ずるい。

名作はだいたい、ずるいのである。

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