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信長が欲しかった大坂|安土では見えない執着の正体

心理・思考

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人が本当に欲しいものは、言葉より行動に出る。

「別にそこまで欲しくない」

と言いながら、毎日その人のSNSを見ている人。

「もう気にしてない」

と言いながら、相手の一言を五年前の分まで暗記している人。

「私は平気」

と言いながら、深夜に天井を見つめている人。

だいたい平気ではない。

人間の本音は、口ではなく時間の使い方に出る。

お金の使い方に出る。

そして、誰を敵に回してでも取りに行ったものに出る。

織田信長もそうだった。

信長といえば、安土城。

天下統一の拠点。
きらびやかな天守。
琵琶湖を望む新しい城。

だから、信長が本当に首都にしたかった場所は安土だった。

そう思われがちだ。

でも、たぶん違う。

信長が本当に欲しかったのは、安土ではない。

大坂だった。

しかも、ただの大坂ではない。

浄土真宗の巨大拠点、大坂本願寺があった場所。

のちに豊臣秀吉が大坂城を築く、あの上町台地。

信長はそこを手に入れるために、10年もの時間を使った。

人も使った。
金も使った。
軍団も使った。
機会も失った。

それでも諦めなかった。

ここに、信長の違和感がある。

なぜ、そこまで大坂にこだわったのか。

答えは単純だ。

大坂が、日本一欲しい土地だったからだ。

その違和感の始まり

織田信長の敵は多い。

武田信玄。
上杉謙信。
浅井長政。
朝倉義景。
三好三人衆。
足利義昭。
毛利輝元。
比叡山延暦寺。

もう敵の展示会である。

信長の人生は、常に誰かと戦っている。

スマホの通知欄が全部「敵襲」で埋まっていそうな男だ。

だが、その中でも最も長く信長を苦しめた相手がいる。

大坂本願寺。

浄土真宗の巨大拠点。

石山合戦は、元亀元年、1570年に始まり、天正8年、1580年まで続いた。

丸10年。

10年である。

小学生が成人手前になる。

当時の感覚なら、人生のかなり長い部分を持っていかれる。

その10年のあいだに、信長は浅井・朝倉を滅ぼした。

比叡山延暦寺を焼き討ちした。

足利義昭を追放した。

長篠合戦で武田勝頼を破った。

丹波、播磨、但馬へと勢力を広げ、毛利領への侵攻も続けた。

つまり信長は、あちこちで戦いながらも、大坂本願寺だけはずっと諦めなかった。

普通なら思う。

「もうそこ、後回しでよくない?」

「他にも敵、多すぎない?」

「10年は長くない?」

だが信長はやめない。

ここに違和感がある。

大坂本願寺を倒しても、浅井や朝倉のように広い領土が手に入るわけではない。

家臣に恩賞として配れる土地も限られる。

戦い甲斐という点では、かなり厄介な相手だった。

それでも信長は攻め続けた。

なぜか。

本願寺そのものではなく、その場所が欲しかったからだ。

人間関係でも似たことがある。

相手の言葉だけを見ると意味が分からない。

でも、行動の執着を見ると、本音が見える。

信長の場合、その本音が大坂だった。

違和感の正体

この違和感の正体。

それは、

「信長は本願寺を倒したかったのではなく、大坂を手に入れたかった」

ということだ。

大坂本願寺は、ただの寺ではなかった。

堀に囲まれた巨大城郭。

強い軍事力。

大きな経済力。

寺内町を形成し、年貢も取る。

ほぼ領主である。

現代風に言えば、宗教法人、自治体、軍事基地、商業都市が全部くっついたような存在。

強すぎる。

寺という名前なのに、実態は要塞。

もはや「ちょっとお参りして帰る場所」ではない。

信長が見ていたのは、その巨大な力だけではない。

もっと重要なのは、立地だった。

『信長公記』には、大坂について「日本一の土地」と記される。

奈良、堺、京都に近い。

鳥羽、淀から大坂の町口まで船の交通がつながる。

北には鴨川、白川、桂川、淀川、宇治川。

さらに中津川、吹田川、江口川、神崎川。

東南から東北には、尼上ヶ岳、立田山、生駒山、飯盛山。

道明寺川、大和川、新しい運河、谷水も流れ込む。

西には広い海。

日本各地の船だけでなく、唐土、高麗、南蛮の船まで出入りする。

五畿七道の産物が集まり、売買され、莫大な利潤を生む。

つまり、大坂は軍事、交通、経済、政治の全部がそろった土地だった。

天然の要害。

物流のハブ。

商業の中心。

京都や奈良をにらめる距離。

堺の商人にも手が届く。

西国大名を抑えるにも便利。

こんな土地、戦国時代の信長から見れば喉から手が出るどころではない。

喉から安土城が出るレベルだ。

信長にとって大坂は、ただの土地ではない。

天下を治めるための心臓だった。

安土は美しい。

だが大坂は動脈である。

血が流れる。

金が流れる。

人が流れる。

情報が流れる。

天下を取るなら、そこを押さえなければならない。

信長はそれを分かっていた。

だから10年かけた。

違和感になぜ気づけないのか

では、なぜ私たちは「信長の首都は安土だった」と思いやすいのか。

理由は分かりやすい。

安土城が目立つからだ。

信長のイメージに合う。

華やか。

革新的。

象徴的。

新時代っぽい。

いかにも信長らしい。

歴史の教科書でも、安土桃山時代という名前がある。

安土城はどうしても印象に残る。

しかし、目立つものが本命とは限らない。

人間関係でもある。

派手に語る夢。

人に見せる肩書き。

SNSに載せる生活。

表向きの理想。

それが本音とは限らない。

本当に欲しいものは、もっと泥臭い場所にある。

誰にも褒められなくても手放せないもの。

時間を失っても取りに行くもの。

損をしてでも執着してしまうもの。

信長にとって、それが大坂だった。

そもそも信長は、居城を何度も変えた人だ。

清洲。

小牧山。

岐阜。

安土。

勢力の拡大に合わせて、拠点を移している。

武田信玄は躑躅ヶ崎館から動かなかった。

上杉謙信も春日山城を最後まで本拠にした。

多くの戦国大名は、一生を通じて居城を変えない。

だが信長は違う。

場所を変える。

自分の勢力に合わせて、拠点の意味を更新する。

ならば、安土の次があったと考える方が自然だ。

天正4年、1576年に安土城を築き始めた時、大坂はまだ信長のものではなかった。

だから安土だった。

大坂が取れたなら、次は大坂だった。

そう考えると、信長の行動は一気につながる。

安土はゴールではない。

途中駅だった。

立派な途中駅。

でも終点ではない。

信長の目的地は、大坂だった。

違和感は少しずつズレていく

この視点を持たないと、信長の10年が少し変に見える。

なぜ本願寺にそこまでこだわったのか。

なぜ和睦しても、また戦いになるのか。

なぜ労力に見合わないような相手に軍団を投入し続けたのか。

理由は、大坂を取れていなかったからだ。

途中で和睦はあった。

元亀3年には、足利義昭の仲介もあり一時的に和睦した。

天正5年にも、正親町天皇の勅命で講和が結ばれた。

でも長続きしない。

信長の目的が、本願寺と仲良くすることではなかったからだ。

大坂を手に入れること。

これが終わらない限り、信長の中では終わっていない。

この執着は、戦い方にも表れている。

大坂本願寺は攻めにくかった。

陸から攻めるなら、上町台地南端の天王寺口がほぼ中心になる。

本願寺側はそこを守ればよい。

しかも海側には毛利氏の支援がある。

村上水軍を味方にし、大坂湾の制海権を握り、武器や兵糧を運び込む。

つまり大坂本願寺は、陸も海も強かった。

かなり面倒な相手だ。

普通の相手なら、もう嫌になる。

だが信長は嫌にならない。

いや、嫌にはなっただろう。

ただ、やめない。

天正4年、1576年には毛利水軍に挑む。

しかしこの時は敗れる。

長篠合戦で有効だった鉄砲も、水軍相手には思うように効かなかった。

船は焼き払われ、完敗した。

ここで終わらないのが信長である。

嫌な上司なら、

「なぜ失敗した?」

と詰めるところだが、信長はたぶん、

「燃えるなら、燃えにくくすればよくない?」

と考えた。

天正6年、1578年。

鉄板で覆った巨船を7隻建造する。

いわゆる鉄甲船。

火矢をものともせず、毛利水軍を撃破。

大坂湾の制海権を奪う。

強い。

そして発想が乱暴に合理的だ。

船が燃える。

では鉄で覆る。

以上。

現場の人間はたまったものではないが、結果は出た。

補給路を絶たれた大坂本願寺は追い詰められる。

武器も兵糧も尽き、人心も弱る。

そして天正8年、1580年。

正親町天皇の指示で、公家の庭田重保と勧修寺晴豊が仲介し、信長と顕如の和睦が成立する。

顕如の長男・教如は籠城を主張して父子は決裂したが、8月2日、大坂本願寺は信長に明け渡された。

10年かけて、信長はついに大坂を手に入れた。

ここで終わりではない。

むしろ、ここから始まるはずだった。

違和感とどう向き合うか

信長は大坂本願寺の跡地をどうしたか。

丹羽長秀と織田信澄に預けた。

丹羽長秀は、安土築城の総奉行を務めた人物である。

つまり、適当に管理を任せたわけではない。

新しい城を築く準備が進められていたと考えられる。

信長は、大坂を次の拠点にするつもりだった。

おそらく、天下一統のための本拠として。

政治。
軍事。
経済。
物流。
外交。

すべての中心にできる土地。

それが大坂だった。

だが、天正10年、1582年6月2日。

本能寺の変。

信長は明智光秀に討たれる。

大坂を手に入れてから、わずか2年。

信長の大坂構想は、そこで断ち切られた。

そして、その意図をよく理解していた人物がいた。

羽柴秀吉だ。

秀吉は、信長の狙いと大坂の地の利を分かっていたからこそ、自分が天下を狙う拠点として大坂に築城した。

つまり秀吉の大坂城は、ただの新規事業ではない。

信長の未完成の構想を、秀吉が引き継いだものとも見える。

ここが面白い。

歴史は、勝った人の名前で記憶される。

大坂城といえば秀吉。

それは正しい。

でも、その土地を本気で欲しがり、10年かけて道を開いたのは信長だった。

信長が安土で終わるつもりだったと見ると、この流れが少し浅くなる。

信長は安土で完成したのではない。

大坂へ移る前に倒れた。

この見方をすると、信長の晩年の輪郭が変わる。

安土は完成形ではなく、次の一手までの仮の王座だった。

信長が本当に座りたかった椅子は、大坂にあった。

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ここで少し、人間関係の話に戻す。

人は、表向きに見せている目標と、本当に欲しがっているものが違うことがある。

「仕事を頑張りたい」

と言いながら、本当は認められたい。

「別に結婚したいわけじゃない」

と言いながら、本当は安心できる居場所がほしい。

「もう関係ない」

と言いながら、本当は分かってほしい。

自分でも気づかない本音は、行動に出る。

時間を使うもの。

お金を使うもの。

損をしてでも手放せないもの。

何度傷ついても戻ってしまうもの。

そこに、人の本心がある。

信長の大坂執着も同じだ。

口では何を言ったとしても、10年という時間が答えを出している。

本当に欲しかったものは、安土の美しさではなく、大坂の実利だった。

きらびやかな象徴より、天下を動かす場所。

それが信長の本音だった。

人間関係でも、自分の違和感を整理したい時は、相手の言葉より行動を見るといい。

何を言ったかではなく、何に時間を使っているか。

何を大事にしているか。

何を絶対に手放さないか。

そこに、きれいごとでは隠せない心理が出る。

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「信長が欲しかった大坂|安土では見えない執着の正体」|まとめ

信長は、安土を首都にするつもりだった。

そう見える。

でも、信長の行動を追うと違う景色が見えてくる。

丸10年にわたる大坂本願寺との戦い。

何度も続かなかった和睦。

毛利水軍との激突。

敗北からの鉄甲船建造。

そして大坂本願寺の明け渡し後、丹羽長秀と織田信澄に任された新城構想。

これらを並べると、信長が本当に欲しかった土地は大坂だったと見えてくる。

大坂は、日本一の土地だった。

天然の要害。

水陸交通の要所。

堺に近い経済都市。

京都、奈良、西国をにらめる政治・軍事の中心。

天下を治めるなら、これ以上の場所はない。

安土は美しかった。

だが、大坂は実用的だった。

象徴としての安土。

支配装置としての大坂。

信長は、その違いを分かっていた。

本能寺の変がなければ、信長の拠点は安土から大坂へ移っていた可能性が高い。

その未完成の構想を、のちに秀吉が大坂城として形にした。

人が本当に欲しいものは、言葉ではなく執着に出る。

信長は10年かけて、大坂が欲しいと行動で語っていた。

だから信長の首都は、安土で終わるはずではなかった。

本当の本命は、大坂だった。

安土はゴールではない。

信長が天下へ向かう途中で建てた、豪華すぎる仮住まいだったのだと思う。

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