深夜、コンビニの駐車場で缶コーヒーを飲んでいる父親みたいな人を見ると、たまに思う。
ああ、この人たぶん今、人生のどこかが壊れてるな、と。
悪い意味じゃない。
むしろ、その逆だ。
子どもを持つことって、だいたいそういう顔になる。
少し疲れていて、少し笑っていて、少し前の自分とは別人になっている。
そして、その変化はたいてい、合理性では説明がつかない。
そこに、強い違和感がある。
その違和感の始まり
炎上覚悟で言う。
「子どもを持つことに合理的なメリットがあるか?」
この問いに対しては、かなりはっきり答えられる。
答えはNOだ。
現代のコスパ至上主義で考えるなら、子どもを持つのは明らかに割に合わない。
いや、割に合わないどころじゃない。
人生の動作が重くなるタイプのやつだ。
時間が消える。
金も消える。
自由も消える。
冷静に考えれば、やる理由なんて一つもない。
二十年単位の超高額サブスクに強制加入して、睡眠と自由まで削られる。
投資案件として見たら、かなり終わっている。
昭和みたいに「老後は子どもが面倒を見る」が前提の時代ならまだしも、今は違う。
老後は自分でなんとかする時代だ。
ROI?
笑わせないでほしい。
銀河系レベルで赤字だ。
数千万単位のキャッシュは溶ける。
キャリアは止まる。
生活は崩壊気味になる。
ここまで並べると、もはや罰ゲームに近い。
でも、ある日そのバグを、自分の人生に入れてしまう人がいる。
そして入れてしまった後、何かが壊れる。
いい意味で。
違和感の正体
結論を先に言う。
子どもを持つ意義の正体は、「合理性を破壊されること」だ。
深夜三時。
理由もわからず泣き続ける赤ん坊を抱えて、眠気で視界が歪みながら部屋をぐるぐる回る。
そのとき、ふと全部どうでもよくなる。
損か得か。
効率か非効率か。
リターンがあるかないか。
そういう、人生をうまく管理している気になれる言葉が、全部吹っ飛ぶ。
ただ一つだけ残る。
「この小さいのを、死なせない」
これだけだ。
あの瞬間、人はたぶん一回、人間をやめている。
いや、もっと正確に言えば、逆かもしれない。
ちゃんと生き物に戻っている。
子どもを持つ意義とは何か。
たぶんそれは、自分がどれだけ「管理」「効率」「自己実現」という言葉に寄りかかっていたかを壊されることだ。
そして、壊されたあとで、意外とその方が生々しく生きていると気づくことだ。
違和感になぜ気づけないのか
人は、自分が人生の主役であることに慣れすぎている。
昨日までの人生は、「自分がどうしたいか」で回っていた。
どこへ行くか。
何を食うか。
いつ寝るか。
何を優先するか。
全部、自分基準だ。
ところが子どもが生まれた瞬間、その構造が壊れる。
人生の主役、強制降板のお知らせである。
今日から世界は、「この小さいのがどうなるか」で回り始める。
正直、最初はムカつく。
なんで俺がこんな裏方みたいなことを延々やってるんだ、と普通に思う。
でも、その不機嫌は、じわじわ別のものに変わる。
ああ、自分はもう、自分を満たすことに少し飽きていたのかもしれない、と。
いい飯。
いい物。
いい評価。
いい肩書き。
全部、自分に向けたご褒美だった。
でも、子どもは違う。
何も返してこない。
むしろ奪ってくる。
睡眠も、金も、時間も、メンタルも。
なのに、なぜか人生の中心に居座ってくる。
そして、気づく。
「自分を幸せにしなきゃいけない」という義務から降ろされるのは、思っていたよりずっと楽しい。
ここが、外からはなかなか見えない違和感の核心だと思う。
子どもを持つことは、幸福の効率化じゃない。
むしろ、自分中心の幸福観を壊されることだからだ。
違和感は少しずつズレていく
子どもが生まれる前、命のバトンとかDNAとか、そういう話にピンと来ない人は多い。
正直、自分もそうだった。
動機なんてもっとひどい。
「このままだと人生ヒマそうだな」
その程度だった。
かなり雑だし、きれいでも何でもない。
でも、たぶん多くの人の本音は案外そんなものだ。
ところが、子どもが熱を出してぐったりしている姿を見ると、急に身体でわかる。
ああ、これは落とせないバトンなんだな、と。
別に高尚な話じゃない。
ミルクを吐く。
オムツが漏れる。
服も床もぐちゃぐちゃ。
こっちも余裕がなくてイライラする。
そのあと自己嫌悪する。
それでも、なんとか繋ごうとする。
AIもメタバースも関係ない。
ただの生き物の仕事だ。
そして、そこに変な納得が生まれる。
ああ、自分もこのめちゃくちゃで、不合理で、でも確実に続いてきた流れの中にいるんだな、と。
さらに、世界の見え方まで壊れる。
子どもと歩くと、ただの道端の石で立ち止まる。
水たまりで全力ジャンプする。
倒れた丸太があれば、全力で押す。
こっちは「早く行こう」と思っているのに、向こうは「今ここ」が全宇宙だ。
そのテンポに付き合っているうちに、失っていた感覚が戻ってくる。
ああ、自分も昔はこうだったな。
でも、今はもう、こんなふうには見れてなかったな。
世界の解像度が上がるというより、死んでいた感受性が勝手に蘇る感じに近い。
置いてきたものが、キラキラしたまま返ってくる。
これもまた、合理性では説明できない。
でも確かに起きる変化だ。
違和感とどう向き合うか
ここで一つ、反対説もちゃんと見ておく。
「そんなの子どもがいなくても得られる」
「他人のために生きることは、介護や仕事や地域活動でもできる」
「子どもを持たない人生にも十分な意味がある」
これはその通りだ。
子どもを持つことだけが人生の深みを生む、とは言えない。
そこは切り分けないと前提が歪む。
だから、子どもを持つことの意義を普遍的な正解として語るのは、たぶん違う。
ただ、それでもなお言えることがある。
子どもを持つことには、自分中心で閉じていた世界を、問答無用で外側にひっくり返す力がある。
しかもかなり暴力的に。
選べないタイミングで泣き、熱を出し、吐き、転び、壊し、笑う。
こっちの予定も価値観も関係ない。
この理不尽さに巻き込まれることで、人ははじめて、
「自分のためだけに生きるゲーム」から少し降りる。
もし向き合うなら、その意義を「美しいもの」として受け取らない方がいい。
重い。
しんどい。
不快。
限界。
ストレス。
気疲れ。
家族との温度差。
夫婦の衝突。
親としての自己肯定感の崩壊。
全部ある。
でも、その全部込みで、なぜか人生の輪郭だけは妙にはっきりする。
そこにだけ、ちょっと不気味なくらいの本物感がある。
子どもを持つことの意義とは?|まとめ
結局、子どもを持つ本当の理由なんて、後付けでいいのだと思う。
産まれて。
寝られなくて。
イラついて。
笑って。
また自己嫌悪して。
ある日ふと、
「もう、こいつのせいで人生めちゃくちゃだわ」
と笑いながら言っている自分に気づく。
しかも、少しだけ嬉しい。
たぶん、それが全部だ。



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