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モラトリアムとは何か|大人になる寂しさの正体を読む

映画・作品考察

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大人になる、という言葉には妙な欺瞞がある。

成長。

自立。

責任。

社会性。

並べると立派だ。

でも実際に起きていることは、もう少し寂しい。

昨日までやたら悩んでいたことを、ある日を境に語らなくなる。

夢について熱く話していた人が、気づけば電気代の話しかしなくなる。

そして本人も、それをそんなに不幸だとは言わない。

ここがいちばん怖い。

人は、壊れるときより、馴染むときのほうが静かだからだ。

モラトリアムとは何か。

難しく言えば「社会的な猶予期間」だ。

でも、そんな教科書みたいな説明では全然足りない。

もっと雑に、もっと正確に言うならこうだ。

モラトリアムとは、“まだ何者でもなくていい時間”のことだ。

そして、その時間が終わる瞬間に、人は少しだけ言葉を失う。

その違和感の始まり

『めぞん一刻』の五代裕作は、長いあいだ未完成だった。

優柔不断。

将来不安。

就職に失敗。

保育士試験に悩み。

管理人さんに恋をしては、嫉妬し、落ち込み、空回りする。

要するに、ずっとジタバタしていた。

しかも、その舞台が一刻館である。

あの場所は、ただの下宿ではない。

モラトリアムの檻だ。

賑やかで。

うるさくて。

面倒くさくて。

でも、どこか居心地がいい。

一の瀬さんや四谷さんや朱美さんの騒ぎに巻き込まれ、酒を飲まされ、情けない姿を晒しながらも、五代くんはそこにい続ける。

読者は、その停滞を見て安心していた。

彼がまだ定まっていない限り、

このどうしようもない日常は終わらない気がするからだ。

停滞している主人公には、不思議な安心感がある。

「まだ何者でもない」

つまり、「まだ間に合う」からだ。

他人事なのに、どこか自分の延長のように見える。

だから、五代くんのドタバタは面白い。

笑える。

ちょっと痛い。

でも、好きだ。

あれはラブコメであると同時に、猶予期間の物語だった。

違和感の正体

ところが最終回になると、空気が変わる。

五代くんは、管理人さんを追いかける青年ではなくなっている。

響子さんの過去に嫉妬する大学生でもない。

父親になっている。

一の瀬さんに

「女の子だって? 名前決めた?」

と聞かれて、

「春の香りで はるか。春香ちゃん」

と答える。

この場面、静かすぎる。

あまりにも静かだ。

かつて一刻館を包んでいた狂騒が、急に遠い。

同じ空間のはずなのに、もう違う場所に見える。

五代くんは、家庭を支える世帯主という“記号”に収まってしまった。

ここで感じる違和感。

その正体は明確だ。

モラトリアムの終わりとは、「特別な主人公」でいる資格を失うことだ。

物語というのは、主人公が「まだ未完成」であるあいだ続く。

迷っているから、見たくなる。

足りないから、応援したくなる。

でも、完成した瞬間。

役割を得た瞬間。

社会に回収された瞬間。

その人は、物語の中心から降りる。

五代くんが言葉少なになったのは、単に大人になったからではない。

もう、自分の内面を饒舌に語る必要がなくなったからだ。

悩み、叫び、走るのは、自分の輪郭が定まっていない人間の特権である。

他者のために生き始めた人間は、驚くほど寡黙になる。

ここに、読者の置いてけぼり感が生まれる。

こちらはまだ、あのジタバタした五代くんを見ていたい。

でも本人は、もう向こう側へ行ってしまっている。

なぜ気づけないのか

人はみな、モラトリアムを少し美化している。

不安定だった。

お金もなかった。

将来も見えなかった。

なのに、なぜか懐かしい。

これは不思議でも何でもない。

あの時期には、「まだ変われる」という幻想があったからだ。

今の自分は仮の姿。

本気を出せばもっといける。

いつか何者かになれる。

この“保留の自由”が、モラトリアムの本質だ。

だから終わると寂しい。

大人になること自体が嫌なのではない。

「もう別の人生にはなれない」と、どこかで理解してしまうのが痛いのだ。

ここで思い出すのが、1980年代のラブコメや青春物の終わり方である。

『タッチ』の上杉達也もそうだ。

目標を達成した瞬間、物語からするりと遠ざかる。

あるいは手塚治虫の群像劇でも、主人公が幸福を手に入れた途端、解像度がふっと落ちることがある。

なぜか。

幸福は、表現者にとって退屈だからだ。

もっと言えば、物語にとっては“死”に近い。

ドラマとは葛藤の別名だからである。

つまり、五代くんが「春香ちゃん」と名を呼んだ瞬間、物語の心臓は止まった。

読者が感じた寂しさは、たぶん勘違いではない。

ちゃんと物語が終わった音を聞いてしまったのだ。

少しずつズレていく

この話が怖いのは、フィクションの中だけで終わらないことだ。

気づけば自分も似たような場所に立っている。

昔は、夢や悩みをあれこれ語っていた。

将来について熱弁したり、自分探しとかいう便利な言葉にしがみついたりしていた。

それが今ではどうだ。

朝起きる。

仕事に行く。

連絡帳を見る。

スーパーで豆腐が安いか確認する。

そして寝る。

もちろん、それが悪いわけではない。

むしろ立派に生きている。

でも、かつての自分から見れば、だいぶ地味だ。

饒舌だった「夢」や「悩み」が、

たった一言の「日常の報告」に圧縮されていく。

「まあ、なんとかやってるよ」

この一言の中に、どれだけの諦めと受容と微妙な達観が混ざっていることか。

五代くんの沈黙は、私たちが大人になるために支払った代償のメタファーでもある。

大人になるとは、かつての“主人公感”を手放すことでもあるのだ。

これはなかなか残酷だ。

若い頃は、全員が自分の人生のセンターに立っている気がしている。

だが年を重ねると、自分は案外、地味なポジションで社会を回している一員に過ぎないと気づく。

しかも、それが思ったより普通に受け入れられてしまう。

人間の適応力、時にホラーである。

どう向き合うか

では、モラトリアムは悪いものなのか。

そうでもない。

あれは必要な猶予だ。

未完成でいていい時間。

失敗しても、まだやり直せると思える時間。

自分の輪郭を雑に描き直せる時間。

ただし、永遠には続かない。

ここが重要だ。

一刻館はシェルターだった。

でも、いつまでも人を守ってはくれない。

だからモラトリアムは、しがみつく場所ではなく、通過する場所なのだと思う。

寂しいけれど、それでいい。

むしろその寂しさがあるから、あの時間は輝く。

もし今、あなたが「まだ何者でもない」状態にいるなら、少し安心していい。

それは単なる停滞ではなく、猶予期間かもしれない。

逆にもう卒業してしまった人も、そんなに悲観しなくていい。

主人公でなくなったわけではない。

ただ、ジャンルが変わっただけだ。

青春ラブコメから、生活ドラマに移行したのである。

視聴率は落ちるかもしれない。

だが、味は出る。

モラトリアムとは何か|まとめ

モラトリアムとは、「まだ何者でもなくていい時間」だ。

そして、その終わりとは、

特別な主人公であることをやめ、

社会の中の一人として静かに生き始めることでもある。

だから寂しい。

でも、その寂しさは敗北ではない。

卒業だ。

めでたいはずなのに、帰り道で少し胸が締めつけられる、あの感じ。

あれに近い。

ちなみに、五代裕作の30年後を想像すると、たぶん多くを語らない。

少し背中が丸くて、穏やかで、娘に「お父さんそれ昭和すぎる」と言われて苦笑いしている。

そしてたまに、一刻館の夢を見る。

人は卒業しても、下宿の騒音だけは心に住み続けるらしい。

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