
『天地明察 上』を読み始めたとき、まず驚いたのは江戸という時代の空気がこんなにも「自由」で「知への情熱」に満ちていたのかということでした。歴史小説というと重厚で敷居が高い印象がありましたが、本作の語り口は驚くほど軽やかで、まるで当時の街角に自分が立っているかのような心地よい没入感がありました。 主人公・渋川春海は、名門の碁打ち衆に生まれた青年です。碁打ちとしての役目を果たしながらも、彼の心を捉えて離さないのは算術や天文といった「知の世界」。新しい問題に触れるたび、文字通り胸をときめかせる姿に、読んでいる私も自然と笑みがこぼれてしまいました。彼の純粋さは、物語を通してずっと光を放っているように感じました。 読み進めるほどに、学問を探究するという行為が、こんなにも人を熱くするのかと驚かされます。理系の難しそうなテーマが中心にあるにもかかわらず、それを支えているのは人の情熱と好奇心であり、気づけば私は春海の背中を夢中で追いかけていました。
【書誌情報】
| タイトル | 角川文庫 天地明察 上 |
|---|---|
| 著者 | 冲方丁 |
| 出版社 | KADOKAWA |
| 発売日 | 2012/06 |
| ジャンル | 歴史・時代小説 |
| ISBN | 9784041003183 |
| 価格 | ¥594 |
徳川四代将軍家綱の治世、ある「プロジェクト」が立ちあがる。即ち、日本独自の暦を作り上げること。当時使われていた暦・宣明暦は正確さを失い、ずれが生じ始めていた。改暦の実行者として選ばれたのは渋川春海。碁打ちの名門に生まれた春海は己の境遇に飽き、算術に生き甲斐を見出していた。彼と「天」との壮絶な勝負が今、幕開く――。日本文化を変えた大計画をみずみずしくも重厚に描いた傑作時代小説。第7回本屋大賞受賞作。 ※本書は2012年5月に発売された角川文庫版『天地明察』を底本に電子書籍化したものです。
本の概要(事実の説明)
本作は、江戸初期・徳川家綱の時代を舞台に、日本独自の暦を作り上げる「改暦事業」の始まりを描いた物語です。歴史の教科書にも登場する渋川春海を中心に、時代の大きな流れと個人の情熱が交差していく構成が魅力的だと感じました。 春海は碁打ちとして幕府に仕えていますが、本当に心惹かれているのは天文や算術の世界でした。ある日、神社で目にした算額絵馬の設問に衝撃を受け、さらに北極出地での星の観測に同行したことで、人生の大きな転機を迎えます。ここで建部昌明や伊藤重孝といった老練の学者たちと出会い、彼らの情熱と無邪気な学問愛に圧倒され、春海自身の心にも火がついていきます。 難解な歴史事業を扱いながらも、物語はひとりの青年の成長記としても読めるため、歴史小説に慣れていない読者にもおすすめできると感じました。特に和算や天文に興味はなくても、春海の喜びに触れるだけで、世界が広がっていく感覚を味わえる一冊だと思います。
印象に残った部分・面白かった点
最も印象的だったのは、北極出地での星の観測のくだりです。建部昌明と伊藤重孝という二人の学者は、62歳と57歳という年齢にもかかわらず、少年のような好奇心と無邪気な興奮を隠さず、春海と共に星を追いかけます。その姿があまりにも生き生きとしていて、胸の奥がじんと熱くなりました。 特に、春海の予測が見事に当たった瞬間、建部と伊藤が子どものように跳ねるように喜ぶ描写は忘れられませんでした。彼らの姿は、学問の本質は「純粋な感動」なのだと静かに語りかけてくるようでした。バスの中で思わず涙が出そうになったという読者がいたのも、すごく共感できました。 また、春海自身の優しさと不器用さも深く心に残りました。才がありながらも、どこか抜けていて涙もろい。周囲の人に支えられながら、自分の道を探していく姿は、時代小説でありながら非常に親しみやすく、彼を応援せずにはいられない存在だと感じました。
本をどう解釈したか
本作は単なる歴史小説でも、学問を描いた物語でもなく、「人と人の心が交わることで世界が開けていく物語」なのだと私は感じました。 春海が暦作りという大事業へ向かう道のりは、偶然の出会いの連続です。しかし、その出会いを本当の「縁」へと変えていったのは、春海自身の誠実さと好奇心でした。建部や伊藤が春海に期待を託していく流れも、春海の真摯さがあったからこそだと思えました。 そして、江戸という時代がこんなにも知への情熱に満ちていたという驚きもありました。和算や算額絵馬が庶民に親しまれ、天文や碁が文化を支えていた背景は、現代とは違った美しい知の風景として描かれており、その世界に触れているだけで心が豊かになるように感じました。
読後に考えたこと・自分への影響
読み終えたとき、私が強く感じたのは「学ぶことは、人生を照らす光になる」ということでした。春海は与えられた役割にとどまらず、自分の知的好奇心を信じて進んでいきます。その過程で出会う人々の情熱や言葉が、彼の人生をさらに豊かにしていくように思えました。 また、どれだけ年齢を重ねても、人は学び続けられるという美しさにも気づかされました。建部や伊藤の無邪気な喜びは、私自身の中にも眠っていた「知りたい」という気持ちを思い出させてくれました。学ぶことをやめない姿勢が、人生の豊かさを支えていくのだと静かに教えてくれる作品でした。
この本が合う人・おすすめの読書シーン
この作品は、静かな休日の朝に読むのがとても心地よいと感じました。部屋に差し込む光の中でページをめくると、江戸の空気がふわりと立ち上がり、春海たちの息遣いがすぐ近くに感じられます。特に朝のカフェで読むと、建部や伊藤のように「知の喜び」をそのまま吸い込みながら、爽やかな気持ちで読み進められると思いました。 時間の流れがゆっくり感じられるときに読むことで、本作の持つ澄んだ空気と軽やかな知性がより鮮明に心に響きます。
『天地明察 上』(冲方丁・著)レビューまとめ
『天地明察 上』は、江戸時代の空に広がる知の世界と、人々の情熱が織り成す清々しい物語でした。学ぶことの喜びや、人との出会いが未来を形づくっていく温かさが胸に残ります。春海の純粋な好奇心と、人々の優しさに触れることで、読後には静かな感動が広がる一冊でした。


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