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『生殖記』(朝井リョウ・著)レビュー|なぜこの語りは私たちの価値観を揺さぶるのか?

小説・文学

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『生殖記』というタイトルを見たとき、正直、少し身構えました。手に取るには勇気がいる言葉でありながら、朝井リョウの作品であるという一点だけで、そのまま引き返すことはできませんでした。読み始めてすぐ、この物語が「刺激的な設定」で驚かせるための小説ではないことに気づきます。 語り手は人間ではありません。しかも、かなり異色です。その軽妙で饒舌な語り口に笑ってしまう場面も多いのですが、笑いの奥に潜むのは、現代社会に対する違和感や息苦しさでした。読み進めるほどに、どこか自分自身の感覚を言い当てられているような気がして、ページをめくる手が止まらなくなりました。 この作品は、読者を感動させようとも、救おうともしていないように思えます。ただ、私たちが普段見ないふりをしている感覚を、逃がさず言葉にしてくる。その居心地の悪さこそが、『生殖記』の読書体験なのだと感じました。

【書誌情報】

タイトル生殖記
著者朝井リョウ【著】
出版社小学館
発売日2024/10
ジャンル文芸(一般文芸)
ISBN9784093867306
価格¥1,683
出版社の内容紹介

『正欲』から3年半ぶりとなる最新長篇。とある家電メーカー総務部勤務の尚成は、同僚と二個体で新宿の量販店に来ています。体組成計を買うため――ではなく、寿命を効率よく消費するために。この本は、そんなヒトのオス個体に宿る◯◯目線の、おそらく誰も読んだことのない文字列の集積です。

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本の概要(事実の説明)

『生殖記』は、朝井リョウによる長編小説で、語り手に「生殖本能(生殖器)」を据えるという非常に特異な構造を持っています。舞台は現代日本。家電メーカーの総務部に勤める達家尚成という男性の日常を軸に、物語は進んでいきます。 尚成は同性愛者ですが、その嗜好を積極的に表明することなく、「手は添えて、だけど力は込めず」という姿勢で、仕事や人間関係、共同体との距離を保ちながら生きています。本作は、そんな尚成の行動や思考を、生殖本能という存在が観察し、語り、時に皮肉交じりに分析していく形式をとっています。 多様性、生産性、成長、共同体といった現代的なキーワードが繰り返し浮かび上がりますが、物語はそれらに明確な答えを与えることはありません。むしろ、それらの言葉がどのように個人を縛り、無自覚な圧力になっているのかを描き出しているように思えました。 社会の空気に違和感を覚えたことのある人や、「理解しているつもり」で済ませてきた自分に引っかかりを感じている読者に向いている一冊です。

印象に残った部分・面白かった点

最も印象に残ったのは、「否定形の意思表示って誰にも見えない」という言葉でした。見ない、支持しない、賛成しない。それらは行動していないのと同じだという感覚を、突きつけられたように感じました。自分は差別していないと思っていても、実際には何もしていないだけなのではないかという問いが、強く残ります。 また、生殖本能が語り手であるにもかかわらず、物語が決してふざけた方向に流れない点も印象的でした。尚成という個体が、共同体に適応するために「擬態」して生きてきた時間の重みが、ユーモアの裏側に確かに存在しています。その語りが軽快だからこそ、逆に尚成の抑圧や諦念が際立って見えました。 さらに、「多様性」という言葉が便利に使われることで、思考停止が起きていないかという問題提起も心に残りました。優しさに見える態度が、実は突き放しである可能性。その危うさを、朝井リョウは非常に巧みに描いていると感じました。

本をどう解釈したか

『生殖記』が投げかけているのは、「人は何を基準に生きるべきなのか」という問いだと思います。社会が求める成長や拡大、生産性といった価値観は、すべての人にとって幸福につながるものなのか。尚成の生き方は、その前提を静かに疑っています。 生殖本能という存在が語り手であることは、人間社会を一段引いた視点から眺めるための装置のように感じました。だからこそ、共同体のルールや暗黙の了解が、どこか滑稽で、不自然なものとして浮かび上がります。 また、本作はマイノリティの物語でありながら、「マイノリティではない人」にも強く作用する作品だと思いました。疎外感や虚しさ、しっくりこなさを抱えたまま生きている人にとって、この物語は他人事ではありません。朝井リョウは、誰かを糾弾するのではなく、読者自身に考えさせる距離感を保っているように感じました。

読後に考えたこと・自分への影響

読み終えて残ったのは、「違和感を放置しないこと」の大切さでした。尚成は、派手な抵抗をするわけでも、声高に主張するわけでもありません。それでも、自分にとって何が幸福につながらないのかを、丁寧に見極めようとしています。 私自身も、「多様性」や「理解」という言葉を使いながら、どこかで思考を止めていたのではないかと振り返るきっかけになりました。何も選ばないこと、何も言わないことは、本当に中立なのか。その問いは、読後もしばらく頭から離れませんでした。 『生殖記』は、答えを与えてくれる本ではありませんが、自分の価値観を見直すための材料を、確かに手渡してくれる作品だと感じました。

この本が合う人・おすすめの読書シーン

この本は、時間に追われているときよりも、夜に一人で静かに読むのが合っていると思います。日中の喧騒が落ち着いたあと、余白のある時間に向き合うことで、物語の言葉がより深く染み込んでくるように感じました。 読み終えたあと、すぐに次の本に手を伸ばすよりも、しばらく考え込める時間があると理想的です。自分自身の中にある、言葉にならなかった違和感と向き合いたいときに、そっと開いてほしい一冊です。

『生殖記』(朝井リョウ・著)レビューまとめ

『生殖記』は、現代社会の前提を静かに問い直す小説です。軽やかな語り口の裏に潜む鋭さが、読後も長く余韻として残ります。違和感を抱えたまま生きている人にこそ、手渡したい一冊だと感じました。

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