1932年、アインシュタインはフロイトに、とんでもなく大きな質問を投げた。
「人類を戦争から解放する方法はあるか」
人類史上でもかなり重たい相談である。
こちらとしては「あります」と言ってほしい。
フロイトの答えは、そんな期待に毛布をかけてくれるようなものではなかった。
「人間には愛や結びつきを求める欲動と破壊や攻撃に向かう欲動の両方がある。後者を完全になくすことはできない」
身も蓋もない。
だが、妙に引っかかる。
戦争なんて、どう考えても割に合わない。
人が死ぬ。
街が壊れる。
莫大な金が消える。
貿易も止まる。
勝った側だって無傷では済まない。
それなのに人間は、何千年も同じことを繰り返してきた。
なぜなのか。
「人間は愚かだから」で片づけるには、どうやら話が複雑すぎる。

戦争は文明が生まれてから始まったのか
なんとなく想像したくなる物語がある。
昔の人間は自然の中で平和に暮らしていた。
やがて国家ができ、権力が生まれ、土地や富を奪い合うようになって戦争が始まった――。
人類の黒歴史は文明と一緒にスタートした、と考えれば話はきれいだ。
ところが、考古学の記録を見るとそう簡単ではない。
考古学者スティーブン・ルブラン氏らが世界各地の先史時代の遺跡を調べると、国家や文明が成立する以前から争いの痕跡が見つかっている。
武器によって傷つけられた人骨。
外敵から守るための柵で囲まれた集落。
記録が比較的しっかり残る社会では、こうした痕跡が広く確認され、戦争による死者の割合を控えめに見積もっても25%に達するという見方もある。
つまり、
「文明が戦争を発明した」
というより、
「すでにあった集団間の争いを、文明が巨大化させた」
と考えたほうが近い。
剣がミサイルになっただけで、人間側の問題はずっと昔から置いてあったらしい。
あまりうれしくない考古学的発見である。
人間は「戦争したい」から戦争するわけではない
では、人間には戦争をしたがる本能でも埋め込まれているのか。
進化人類学で有力なのは、そこまで単純な話ではない。
注目されるのは、
「仲間を守り、資源を得るために集団で協力する」
という戦略だ。
仲間を守りたい。
家族を守りたい。
自分たちが生きるための資源を確保したい。
一つひとつを見ると、それほど異常な感情ではない。
むしろ人間関係の中では、ごく自然に見える。
問題は、この「仲間を守る」が集団単位になったときだ。
こちら側に「守るべき仲間」ができれば、その境界線の向こうには「あちら側」ができる。
そして状況によっては、
自分たちを守るために相手を攻撃する。
という、一見矛盾した行動まで成立してしまう。
守るために攻撃する。
言葉だけならアクセルとブレーキを同時に踏んでいるようだが、人間の歴史では何度も起きている。
「こっちが勝つだろう」が戦争を始めさせる
もう一つ厄介なのが、人間は必ずしも自分を正確に評価しないことだ。
「敵はそれほど強くない」
「こちらのほうが有利だ」
「短期間で終わる」
こうした見積もりが外れれば、本来なら避けたはずの衝突に突っ込むことになる。
心理学では、自分や自分の状況を実際より好意的に捉える傾向を「ポジティブな幻想」と呼ぶ。
これは戦争だけの特殊な心理ではない。
日常にも小型版がいる。
「この仕事、今日中に終わるだろう」
午後5時。
終わっていない。
人間は自分の能力や未来を、少し明るめの照明で見ることがある。
日常なら残業で済むことも、国家規模になると笑えない。
動物なら分が悪ければ引く
人類学者リチャード・ランガム氏は、動物は戦う前に勝算を見積もり、分が悪ければ引くという趣旨の指摘をしている。
戦えば自分も傷つく。
それなら勝てそうにない相手とは戦わない。
かなり合理的だ。
ところが人間には、相手の力を低く、自分の力を高く見積もってしまう余地がある。
もし双方が、
「こっちが勝つ」
と思っていたらどうなるか。
片方は必ず間違っている。
場合によっては両方とも間違っている。
それでも、戦争が始まる前には答え合わせができない。
ここが恐ろしい。
合理的な国同士でも戦争は起こる
ここまでなら、
「結局、人間の心理が悪いのか」
と思いたくなる。
ところが政治学は、さらに嫌な話を持ってくる。
冷静に損得を計算する国同士でも、戦争は起こり得る。
戦争には莫大な費用がかかる。
人命を失い、設備を失い、貿易も傷つく。
だったら戦争で奪い合うより、最初から交渉して分けたほうが双方に得なはずだ。
理屈ではそうなる。
なのに交渉が壊れる。
なぜか。
相手の本当の実力が分からない「情報の非対称性」
一つ目は、情報の非対称性。
交渉相手が本当はどれくらい強いのか分からない。
しかも国家には、自分の軍事力や弱点を全部正直に公開する理由もない。
「実はうち、かなり弱いです」
などと先に申告する国は期待できない。
結果として双方が相手の実力を読み違え、交渉で受け入れられる条件まで見誤る。
情報不足が、そのまま衝突の入口になる。
「今の約束を将来も守るのか」というコミットメント問題
二つ目は、コミットメント問題。
今は約束できる。
しかし数年後、力関係が変わったらどうなるのか。
相手が急速に強くなっているなら、
「強くなったあとも、今日の約束を守ってくれるのか?」
という不信感が生まれる。
保証できない。
すると恐ろしい選択肢が浮かぶ。
「だったら、相手が強くなる前に叩いたほうがいい」
未来への不安が、現在の攻撃を合理的に見せてしまう。
人間関係でも「今はいいけど、この先どうなる?」という不安は厄介だが、国家間では規模が違いすぎる。
半分にできないものを争う「価値不可分性」
三つ目は、価値不可分性。
世の中には、
「じゃあ半分ずつ」
が通用しないものがある。
聖地や首都のように、双方にとって特別な意味を持ち、簡単には分割できない対象だ。
ケーキなら半分に切れる。
聖地はそうはいかない。
双方が「全部必要だ」と考えれば、交渉できる余白そのものが狭くなる。
つまり戦争は、怒りや憎しみだけから生まれるわけではない。
交渉の仕組みそのものにも、落とし穴がある。
戦争がなくならない理由は人間の中と外の両方にある
ここまで来ると、最初の問いの難しさが見えてくる。
戦争がなくならない理由を、
「人間は攻撃的だから」
だけでは説明できない。
仲間や資源を守ろうとする心理がある。
自分たちを実際より強く評価してしまう認知の偏りがある。
さらに、本人たちが合理的に判断していても交渉が壊れる構造がある。
人間の頭の中だけ直せば終わる話でもない。
制度だけ変えれば終わる話でもない。
複数の歯車が、嫌な方向にきれいに噛み合ったとき、戦争という巨大な機械が動き始める。
だから止めるのも難しい。
フロイトが「攻撃性をなくそう」と言わなかった理由
冒頭の1932年の往復書簡に戻る。
フロイトは、人間の攻撃性そのものを完全に消せるとは考えなかった。
代わりに示したのは、愛や人と人との結びつきを強める方向だった。
そして文化や文明が発展することで、人間そのものが戦争を嫌う方向へ変化していく可能性に期待した。
少し意外でもある。
文明が戦争を巨大化させる力を持つ一方で、文明には戦争を抑える側の力も期待されている。
人間は攻撃性を持つ。
だから終わり。
ではなかった。
消せないなら、別の力で抑える。
90年以上前の回答だが、この発想は今読んでも重い。

90年以上たっても「戦争をなくす方法」は宿題のまま
1932年にアインシュタインが投げた、
「人類を戦争から解放する方法はあるか」
という問い。
それから90年以上が過ぎた。
考古学は、人類の争いが文明以前まで遡ることを示してきた。
進化人類学や心理学は、仲間を守る心理や認知の偏りに光を当てた。
政治学は、合理的な意思決定者同士でさえ戦争に至り得る仕組みを説明してきた。
「なぜ起きるのか」は、かなり見えるようになった。
「どうすれば二度と起きないのか」は、まだ解けていない。
今日からできることを一つ挙げるなら、自分と反対の立場を見たときに、一度だけ「相手は何を守ろうとしているのか」と考えてみることだ。
国家間戦争をそれだけで止められる、という話ではない。
ただ、「こちら側」と「あちら側」に分かれた瞬間、人間の認知がどう動くのかを知る小さな練習にはなる。
人類は戦争の原因をずいぶん詳しく説明できるようになった。
それでも戦争そのものはなくなっていない。
知っていることと、できることは違う。
どうやら人類は、そこをまだ勉強中らしい。


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