
最初のページで、私は“色”の温度に引き込まれました。赤の熱、青の静けさ——そのあいだに置かれた「エスキース」が、やがて誰かの部屋、誰かの手もと、誰かの記憶へと渡っていく。そんな予感だけで胸がすでに温かくなるのです。 読み進めるうちに、私はたびたび本を閉じ、少し巻き戻して確かめたくなりました。登場人物たちの言葉や仕草が、思いがけないところで反射し合うからです。物語の終盤、タイトルの“と”が意味を帯び、点在していた光が一本の線に合流した瞬間、私の中で静かな拍手が起きました。 日々に疲れて「刺激は要らない、けれど気持ちの芯は動きたい」と感じるとき、この本はやさしく背中を押してくれる——そんな一冊だと感じました。
【書誌情報】
| タイトル | 赤と青とエスキース |
|---|---|
| 著者 | 青山美智子 |
| 出版社 | PHP研究所 |
| 発売日 | 2024/09 |
| ジャンル | 文芸(一般文芸) |
| ISBN | 9784569904238 |
| 価格 | 730円 |
2022年本屋大賞第2位! 二度読み必至の感動作、待望の文庫化。 ◇STORY メルボルンに留学中の女子大生・レイは、現地に住む日系人・ブーと恋に落ちる。彼らは「期間限定の恋人」として付き合い始めるが……(「金魚とカワセミ」)。額縁工房に勤める空知は、仕事を淡々とこなす毎日に迷いを感じていた。そんな時、「エスキース」というタイトルの絵に出会い……(「東京タワーとアーツセンター」)。一枚の絵画をめぐる、五つの愛の物語。彼らの想いが繋がる時、奇跡のような真実が現れる――。著者新境地の傑作連作短編。
本の概要(事実の説明)
長い時間軸をたどる連作長編です。起点はメルボルン。日本人留学生のレイと、日系人のブーが出会い、その関係がやがて一枚の絵「エスキース」を生みます。絵は国を越え、人手を渡り、日本へ。額装職人、写真に写る漫画家と師匠、店員、そして別々の章にいた人々が、見えない糸でゆるやかにつながっていきます。 ネタバレは避けますが、終盤の“気づき”によってタイトルの読み取りが反転し、時間がたわみを見せる仕掛けが効いています。章ごとの語りは独立しているのに、全体としては長編のうねり。音楽でいえばモチーフが折り返しで再登場し、意味を変えて響くような構成です。 絵、美術、ものづくり、人の仕事に宿る誇りを丁寧に描く語り口が印象的。派手な事件ではなく「生活の触感」を味わいたい読者に向いています。
印象に残った部分・面白かった点
まず心を掴まれたのは、額装職人の章でした。仕事の合理化が進む中で「家庭で絵を楽しむための額装」という文化が失われていく寂しさと、それでも“手”に残る技と矜持。静かな語りですが、ものづくりへの敬意が芯に通っていて胸が熱くなります。 また、期間限定の恋であると自覚しながらも、互いの未来のために「手放す」という選択が描かれる場面は忘れがたいです。喪失ではなく“送り出す”手つき。その痛みの上に、やがて別の光が差すことをこの物語は知っているのだと感じました。 エピローグで一気に仕掛けがほどけ、散りばめられた赤と青の断片が線で結ばれる瞬間、「最初に戻って読み直したい」という衝動が起こります。読み直しに耐える設計は、長編としての厚みそのものです。
本をどう解釈したか
私はこの作品を、「時間の編集」をめぐる物語として受け取りました。私たちは後から振り返った瞬間に、初めて出来事の意味づけをやり直すことがあります。タイトルの“と”が象徴するのは、対立や二項ではなく“あいだ”の余白。赤と青、過去と未来、別れと再会——その間に挟まれた“と”が、人生の色合いを決めるのだ、と。 もう一つは、「手放し」の倫理です。絵にまつわる人々は、所有するのではなく、次へ渡す。その連鎖が関係を深め、世界をほんの少し広げる。所有から共有へ、成果からプロセスへ——そんな価値の転換が静かに描かれています。 “思いきり生きよ”というスローガンに慎重であることも、この物語の誠実さです。人生が一度きりだからこそ、踏みしめるように進む。無理に火力を上げない生き方を肯定してくれる視線に、私は救われました。
読後に考えたこと・自分への影響
読み終えて、私は自分の生活の中で“編集”できることを探し始めました。部屋の壁に好きな一枚を掛け直す。古い道具を磨き、手に馴染む時間を取り戻す。連絡をためらっていた相手に短いメッセージを送る。どれも小さな行為ですが、物語に触発されると、世界の輪郭が少し柔らかくなります。 また、「今は手放す」という決断も前向きな選択だと腑に落ちました。結果が見えないとき、私たちは握りしめたままでいがちです。でも、手放すことでしか見えてこない景色がある。赤と青の混じり合いが紫にならないよう、あえて“あいだ”を保つ勇気。そんなバランス感覚を、日々の会話や仕事の段取りに活かしたいと感じました。
この本が合う人・おすすめの読書シーン
おすすめは夜にじっくり。照明を少し落として、温かい紅茶を用意してください。ページを繰るたびに、紙の手触りやカップの湯気が、絵のマチエールを指先で追うような読書体験に変わります。 もう一つは静かな休日に。一章ごとに休憩をはさみ、部屋の壁に視線を移して“自分にとっての赤と青”を思い浮かべる時間を。読了後、きっと最初の章へ“もう一度”戻りたくなるはずです。その往復運動こそ、本書の醍醐味だと感じました。
『赤と青とエスキース』(青山美智子・著)レビューまとめ
一枚の絵が人から人へ渡るたび、人生の色が少しずつ変わる。『赤と青とエスキース』は、所有ではなく“受け渡し”で世界が広がることを教えてくれる静かな名品です。読み終えたら、最初のページへ。もう一度、色の温度を確かめたくなります。


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