豊臣秀吉はなぜ幕府を開かなかったのか?【宮下英樹・センゴク】

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豊臣秀吉は日本の歴史の中で最も有名な人物の一人であり、日本全土を統一し、類まれな政治手腕を発揮したことで知られています。

しかし、そんな彼が幕府を開かなかった理由については、今なお議論の的となっています。

現代の視点で見ると、武家政権を築いた人物は当然「幕府」を開きそうなものですが、秀吉はあえてこれを選びませんでした。

この背景には何があったのか。秀吉の選択を紐解くために、彼の時代背景や政治的戦略、そして個人の判断について詳しく探っていきます。

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武家政権=幕府という固定観念の誤解

現代の私たちが「武家政権=幕府」というイメージを持つのは、江戸時代以降に確立された歴史観によるものです。しかし、信長・秀吉・家康の生きた時代には、武家政権の形態には多様な可能性がありました。当時の武家政権の選択肢として、以下のような形態が存在しました。

平氏政権のように朝廷のシステムを利用して支配する形式

平清盛は朝廷の官職を利用し、権力を朝廷内に根付かせることで勢力を拡大しました。この方法は、朝廷の既存のシステムを活用するという点で、最も保守的かつ効率的な支配方法の一つと言えます。

源頼朝のように征夷大将軍として武家政権を築く形式

源頼朝が選択したのは、征夷大将軍という朝廷の官職を利用しながらも、独自の家政機関を構築して武家による支配を可能にする形式です。これは、朝廷の権威を利用しつつも、地方分権的な支配体制を築く画期的な方法でした。

過去の形式に囚われず独自の体制を構築する形式

新たな形式を模索することもまた、当時の選択肢の一つでした。織田信長は「天下布武」の理念を掲げ、これまでの枠組みに囚われない独自の政権を目指しましたが、その最終形態は「三官推任」を示したまま急死したため、不明のままです。

「三官推任」とは、天正10年(1582年)に織田信長が朝廷から「征夷大将軍」「太政大臣」「関白」のいずれかに任命される可能性が議論された問題を指します。この件は、信長の家臣である村井貞勝と武家伝奏の勧修寺晴豊との間で話し合われました。しかし、信長が正式な回答を出す前に本能寺の変が起こり、彼の最終的な意向は不明のままとなりました。

秀吉はこの中から、自分の置かれた状況や目的に最も適した形態を選びました。

彼が選んだのは、平氏の方法に似た朝廷のシステムを活用しつつ、武家政権を維持するという独自の路線でした。

秀吉が幕府を開かなかった理由

豊臣秀吉が幕府を開かなかった最も明確な理由として、彼が征夷大将軍への就任を断ったという事実があります。

1584年、朝廷は秀吉に対し、従三位権大納言の叙任と同時に征夷大将軍への就任を勧めました。

しかし、秀吉はこれを拒否。

この決断にはいくつかの背景がありました。

足利将軍家の末期がもたらした「将軍」の価値の低下

足利義輝・義昭兄弟が武家の棟梁として機能しなかったことで、将軍という地位そのものの権威が大きく失墜していました。

特に義昭は織田信長に担がれながらも反旗を翻し、自らの地位を貶める行為を繰り返します。

この結果、将軍という称号は政治的にはほとんど意味を持たないものとなり、秀吉から見てもそれをわざわざ選ぶ価値はなかったと言えます。

朝廷システムを利用した統治の優位性

秀吉は、征夷大将軍という地方における軍政的な役職よりも、朝廷内部で高位を占めることで中央集権的な支配を行うほうが有効であると判断しました。

そのため、彼は将軍職を選ばずに、朝廷の内部に食い込む道を選びました。

関白という新たな権威の創造

秀吉が征夷大将軍を選ばなかった代わりに選んだのが、関白という立場です。

1585年、近衛前久の養子となった秀吉は、関白に就任します。

宮下英樹「センゴク」

この決断は、これまでの日本の歴史において画期的なものでした。

異例の関白就任

宮下英樹「センゴク」

関白職は藤原氏が独占してきた役職であり、これを豊臣秀吉のような武家が就任するのは前例のないことでした。

朝廷は、秀吉の勢力を抑えるために関白職を譲るという妥協策を取ったとも言えます。

この背景には、関白相論という摂関家内部の争いがあり、これを利用する形で秀吉が関白に就任しました。

「関白相論(かんぱくそうろん)」とは、天正13年(1585年)に二条昭実と近衛信輔の間で発生した、関白の地位を巡る朝廷内の争いを指します。この争いは、当時内大臣であった豊臣秀吉の昇進をきっかけに始まりました。結果的に、当事者である二条昭実と近衛信輔を差し置いて、秀吉が関白に就任することとなり、豊臣政権にとって大きな転機となりました。 

天皇代行としての権威の確立

関白は天皇の代行者としての立場を持つため、その権威は将軍よりも高いものでした。

秀吉はこれを利用し、征夷大将軍に頼ることなく全国の支配を可能にしました。

この選択により、武家政権の在り方そのものを変革することを目指しました。

豊臣政権が選んだ独自の支配体制

秀吉の政権は、従来の幕府という形態とは異なり、朝廷を基盤とした中央集権的な体制を取っていました。

征夷大将軍の限界

征夷大将軍は本来、戦地での軍政を担当する役職であり、中央での政治に直接関与するものではありませんでした。

京都を拠点とした秀吉にとって、この役職は実用性が低かったと考えられます。

「幕府」の否定

秀吉は、足利将軍家が貶めた「幕府」という制度そのものに価値を見出さず、それを捨て去る形で新たな政権を築きました。

彼が選んだのは、関白という朝廷を利用した体制であり、これが後の歴史における「豊臣政権」として知られるようになりました。

徳川家康が幕府を開いた理由

一方、徳川家康は秀吉とは異なり、征夷大将軍に就任して幕府を開きました。

この選択の背景には、家康が源頼朝の統治方法を模範としようとした意図がありました。

源頼朝への深い敬意

家康は源頼朝を個人的に尊敬しており、『吾妻鏡』を愛読していました。

この影響を受けた家康は、頼朝の築いた幕府体制を模倣しつつ、さらにその制度を強化しようとしました。

豊臣家への対抗

家康が幕府を選んだ理由には、まだ豊臣家が摂関家として残存しており、これを打倒するための独自の体制が必要だったという現実もあります。

家康は幕府という形式を利用し、豊臣家に対抗するための政治基盤を築きました。

おわりに

豊臣秀吉が幕府を開かなかった理由には、将軍職の価値の低下や関白という新たな権威の選択、そして朝廷システムを利用した統治方法の合理性がありました。

一方で、徳川家康は幕府制度を復活させることで、自らの統治体制を確立しました。

このように、秀吉と家康はそれぞれの状況や目的に応じて異なる統治形態を選んだのです。

この二人の選択が日本の歴史に与えた影響は計り知れず、武家政権の可能性を広げた点で特筆に値します。

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