筒井順慶ってどんな人?奈良・郡山城と戦国時代をめぐる旅【奈良ゆかり戦国武将】

奈良県【歴史・文化・人物】
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奈良の大和郡山市にゆかりのある戦国武将・筒井順慶。

どんな人物だったの?郡山城ってどんなお城?松永久秀や織田信長との関係は?

そんな疑問にお答えしながら、筒井順慶の人生と歴史ロマンをたどります。

ゆかりの地や観光スポットもあわせて紹介する、奈良ファン・歴史好きにぴったりの記事です。

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筒井順慶(つつい じゅんけい)とは

筒井順慶(1549~1584)は戦国時代から安土桃山時代にかけて大和国(現在の奈良県)を治めた戦国大名です。

幼少で家督を継ぎ、大和侵攻を図る松永久秀との長年の抗争を経て織田信長に臣従し、大和一国の支配を任されました。

その生涯には数々の合戦や政治的駆け引きがあり、特に本能寺の変直後に明智光秀と豊臣秀吉の争いを傍観した逸話から「洞ヶ峠を決め込む(洞ヶ峠で日和見する)」という故事成語が生まれたことで知られます (※この伝承は後述のとおり史実とは異なる部分があります )。

以下では、順慶の生涯と功績、大和郡山市との関わり、織田信長・豊臣秀吉との関係、筒井氏の家系と後継、関連する城や合戦、そして現代に残る筒井順慶ゆかりの史跡・観光情報について総合的に解説します。

筒井順慶の生涯と功績

筒井順慶の主な生涯の出来事を年代順にまとめると次の通りです。

年代(和暦)出来事
1549年(天文18年)筒井順慶誕生。父は筒井順昭、母は大方殿。
1550年(天文19年)父・順昭が病没し、順慶が家督を継ぐ。
1565年(永禄8年)松永久秀により筒井城を奪われる(筒井城の戦い)。
1566年(永禄9年)筒井城を奪還し、「順慶」と名乗る。
1571年(元亀2年)明智光秀の仲介で織田信長に臣従、大和支配に協力。
1580年(天正8年)織田信長の命で筒井城から郡山城に本拠を移す。
1582年(天正10年)本能寺の変後、明智光秀の誘いを断り、秀吉に臣従。
1584年(天正12年)小牧・長久手の戦いに病身で出陣後、病死(享年36)。

このように、筒井順慶の36年の生涯は波乱に満ちていました。

幼少期に家督を継いだ順慶は、大和国に侵攻してきた松永久秀との戦乱に耐えながら成長し、度重なる敗北から粘り強く巻き返して大和における主導権を奪還。

特に永禄9年(1566年)に筒井城を奪還したことは彼の転機となり、その後「順慶」と名乗って本格的に大名として立ち振る舞うようになります。

東大寺大仏殿を焼失させるほどの激戦(1567年)や、織田信長が台頭する中での迅速な情勢判断などを経て 、順慶は信長に臣従して勢力を保ちました。

織田家臣としては、明智光秀の仲介によって信長に謁見し、母親を人質に出すことで信頼を得ています。

その後は織田軍の一員として各地を転戦し、1576年には信長から「大和一国筒井順慶存知」との朱印状を得て大和国主(国司)に任じられました。

これは大和国の統治を一円的に任されたことを意味し、順慶の権勢が確立したことを示します。

実際、順慶は大和支配にあたり興福寺をはじめとする寺社勢力の調停や、織田政権のもとでの検地(土地調査)の断行などにも尽力し 、混乱が続いた大和国内に秩序をもたらしたと評価されます。

順慶の功績の一つに挙げられるのが郡山城の築城と領国経営です。

天正8年(1580年)に信長の命で筒井城から郡山城へ本拠を移す際、順慶は古い筒井城や各地の支城を自ら破却し、新たな拠点・郡山城を整備しました。

郡山城への移転は、水害のおそれがあり手狭になっていた低湿地の筒井城に代わり、奈良盆地の中央部に位置する郡山の地に堅固な城郭と城下町を築くものでした。

この判断により大和における統治基盤は一層強化され、商工業者や職人を集めて郡山城下町も発展していったとされます(郡山城の城下には塩町・魚町・豆腐町など商人町の名残が今も残ります )。

しかし、天正10年(1582年)に本能寺の変が起きると状況は一変。

織田家中で重きをなしていた明智光秀と豊臣秀吉が争う中、順慶は前述のように動静を観望する消極策をとりました。

この対応は後世に批判的に伝えられ、「日和見順慶」「洞ヶ峠を決め込む」という不名誉なあだ名が残る結果となりました。

もっとも、実際の史料によれば順慶自身は洞ヶ峠に布陣すらしておらず、この俗説は事実と異なる風評にすぎないとされています (※洞ヶ峠にはむしろ光秀側が布陣して順慶の出方をうかがった )。

いずれにせよ、順慶は最終的に秀吉に恭順して大和領主の地位を保ちましたが、本能寺の変から2年後の1584年に病に倒れ、36歳で早逝しました。

順慶の死後、その跡を継いだ養子の筒井定次が豊臣政権下で大名として存続したものの(後述)、順慶自身が大和統治に果たした役割は大きく、彼の統治期間中に戦乱続きだった大和国は一応の平定を見るに至ったといえます。

文化面では茶の湯・和歌・能楽などを嗜む教養人としての一面もあり、在国中は興福寺の薪能に積極的に参加したとの記録もあります。

一方で、鉄砲鋳造のために寺の釣鐘を没収するなど、織田政権下では必ずしも寺社保護一辺倒でなく実利を優先する施策も行っています。

このように武芸と文化の双方に通じた人物像も順慶の特徴と言えるでしょう。

筒井順慶と大和郡山市との関係

現在の奈良県大和郡山市は、筒井順慶ゆかりの地として知られています。

順慶はもともと大和国筒井城(奈良県大和郡山市筒井町付近)を本拠としていましたが、上述のように1580年に郡山城(奈良県大和郡山市)を築いて居城を移しました。

これは織田信長の命によるもので、順慶は郡山城下に新たな城郭と町を造営し、大和支配の拠点としたのです。

このとき筒井城は廃城とされ、以後は郡山城が大和国支配の中心となりました。

順慶と大和郡山(郡山城)との関係は、郡山城の礎を築いた点に集約されます。

順慶が郡山城へ移った当初は、天守や本丸御殿などは簡素なものだったと推測されますが、順慶の死後に豊臣秀吉の弟・豊臣秀長が1585年に入城してから大規模改修が行われ、近世城郭としての郡山城が完成しました。

秀長は大和郡山を100万石の本拠と定め、城の増築や城下町の整備を進め、石垣には石仏を転用するなどの独特な工法も見られます。

この結果、郡山城は奈良盆地を代表する大規模城郭となり、城下町も商工業で繁栄することになります。

つまり、順慶が築いた郡山城を土台にして郡山市の町割りや経済基盤が形作られていったと言えるでしょう。

一方、順慶ゆかりの筒井城は廃城後、城跡一帯が田畑や宅地化し、近世以降は筒井町という地名として残りました。

筒井城跡周辺ではわずかに堀跡(池や水路)が残っている程度ですが、中世平城としては南北約400m・東西約500mにも及ぶ比較的大きな城郭だったことが知られています。

この筒井城で順慶の曾祖父・筒井順覚以来8代にわたり筒井氏が本拠とし、松永久秀との戦乱でも幾度も攻防戦が繰り広げられました。

現代の大和郡山市筒井地区には「筒井城跡」の石碑や説明板が整備され、地域の人々に順慶の治世がしのばれています。

また、大和郡山市内には筒井順慶の五輪塔(墓所)が残されています。

順慶の遺骸は前述の通り一度奈良市内に葬られましたが、その後長安寺町の墓所(現在の筒井順慶歴史公園)に改葬されました。

この墓所には五輪塔とそれを保護する小堂(覆堂)があり、国の重要文化財に指定されています。

五輪塔覆堂は一間四方ほどの小堂で、内部に順慶供養の五輪塔と命日に寄進された石燈籠が安置されています。

大和郡山市は国有地であるこの墓所を整備して歴史公園として公開しており、順慶の命日には供養が行われることもあるようです。

地域ではこの五輪塔が「筒井順慶公の御廟所」として親しまれ、奈良県民に戦国期の郷土史を伝える史跡となっています。

このように、大和郡山市(旧郡山城下と筒井地区)には筒井順慶の足跡が色濃く残っており, 郡山市の歴史や観光の面でも順慶は重要な人物です。

毎年春には郡山城跡一帯で「お城まつり」が開催され、順慶や秀長ゆかりの郡山城と約1,000本の桜のコラボレーションが多くの観光客を集めています。

郡山市の公式キャラクターやイベントでも順慶が取り上げられることがあり、地域の誇りとしてその功績が語り継がれています。

筒井順慶と織田信長・豊臣秀吉との関係

筒井順慶の人生は、織田信長および豊臣秀吉という二人の天下人との関わり抜きには語れません。

それぞれの時期における順慶の立場とエピソードを見てみましょう。

織田信長との関係

信長が上洛を果たした1568年前後、順慶は当初松永久秀の打倒に専念するあまり情勢判断が遅れ、信長への接触が遅れました。

しかし元亀2年(1571年)、明智光秀の取りなしによってようやく信長に臣従する機会を得ます。

このとき信長と敵対関係にあった松永久秀も同時に信長に恭順し、光秀と織田家重臣・佐久間信盛の仲介で順慶と久秀は和睦しました。

これにより一旦は順慶と松永氏の戦いは小康状態となり、順慶は形式上織田家中の一大名という位置づけになります。

その後、松永久秀が将軍・足利義昭や三好三人衆と結んで再び織田に反抗すると、順慶は織田方の将として松永勢と各地で戦火を交えました。

1573年には信長が将軍義昭を追放して京都を制圧し、松永久秀も降伏します。

この時期、順慶は信長に拝謁するため岐阜城を訪れ、臣従の証として実母の大方殿を人質に差し出しています。

信長からすれば大和を平定する上で順慶は欠かせない国人領主であり、順慶も生き残りのため信長への忠節を示した形です。

信長の家臣団に入った順慶は、その待遇として織田家の娘(もしくは妹)を正室に迎えることを許されました。

これは1575年2月のことで、『多聞院日記』によれば「順慶、信長の息女を娶る」とあり 、織田家との縁戚関係を得た順慶の立場が安定したことを示します。

以後、順慶は織田軍の与力大名として各地へ派兵し、天正3年(1575年)の長篠の戦いでは大和勢の鉄砲隊50名を提供、同年の越前一向一揆平定にも参戦。

さらに、天正4年(1576年)5月に織田軍の石山本願寺攻めで上役の原田直政が戦死すると 、同年5月10日付で織田信長は明智光秀を使者として「大和一国順慶存知」すなわち筒井順慶に大和一円の支配を任せる旨を通達しました。

このとき順慶は明智光秀の与力という立場にもなり 、人質に出していた母も信長から返されています。

以降、順慶は名実ともに大和国主として振る舞い、同年暮れには安土城の信長を訪問して刀や柿・布など土産を献上し、信長から縮緬や馬を賜るといった主従の親密な交流も記録されています。

天正5年(1577年)に松永久秀がついに信長に反旗を翻した際には、順慶は織田方の先鋒としてこれを迎え撃ちました。

信貴山城の戦いではまず松永方の片岡城を攻め落とし、10月に信貴山城への総攻撃が行われた際には、順慶自身も攻城戦に加わっています。

最終的に信貴山城が落城し松永久秀・久通父子が自害すると、順慶は敵将であった久秀の遺骸を収容して自ら供養したとも伝えられています。

こうした寛容な振る舞いは順慶の人柄を示す逸話として語られることもあります。

また、松永氏滅亡後の大和平定を果たした順慶は、信長から引き続き厚遇されました。

天正8年(1580年)には前述のように大和の支城破却と郡山城築城の許可を得て 、大名としての治世基盤を固めています。

信長に対しても、同年9月に大和一国で実施した検地の結果を報告し、功績を認められています。

総じて、織田信長との関係は順慶にとって領土安堵と権威付けを得るための主従関係であり、順慶は信長の信頼に応える形で大和統治を全うしたといえます。

豊臣秀吉との関係

本能寺の変後、順慶は新たな主君候補となった羽柴(豊臣)秀吉にいち早く恭順しました。

前述の通り、山崎の戦いでは様子見に徹したものの、光秀敗死直後の6月14日には秀吉に直々に謁見しています。

ところが、秀吉は順慶の合戦不参加を問題視し、諸将の面前で「なぜすぐ参陣しなかったのか」と順慶を叱責したと伝えられます。

この秀吉の叱責に順慶は憔悴し、一時体調を崩したとの風聞が奈良で流布したほどでした。

それでも順慶は秀吉の下で大和国主として生き残る道を選び、7月には養子の筒井定次(順慶の従弟にあたる)を人質として大坂城下に差し出すことで忠誠の意を示しました。

これにより秀吉も順慶を大和の領主として認め、所領は安堵されています。

秀吉の配下大名となった順慶は、その後まもなく勃発した織田信雄・徳川家康連合との小牧・長久手の戦いに秀吉方として参戦。

天正12年(1584年)3月頃、大坂に滞在していた順慶は胃痛を訴えて床に伏せっていましたが、秀吉からの出陣要請を受けて病を押して出陣しました。

順慶率いる筒井軍は伊勢国・美濃国方面を転戦しましたが、長久手での合戦が膠着状態に終わり講和となった後の6月、順慶は大和郡山に帰陣。

帰国後、持病の胃病が悪化したため順慶は療養に努めました。

秀吉も名医・曲直瀬道三による治療を手配しますが効果なく、順慶は8月に病没してしまいました。

秀吉との主従関係はわずか2年ほどでしたが、順慶亡き後も秀吉は筒井家をすぐには取り潰さず、養子の筒井定次に家督相続を許しています。

これは順慶が本能寺直後の混乱期において秀吉に敵対しなかったことや、大和を治める能力を買われていたことが背景にあると考えられます。

もっとも、順慶の死後に筒井氏の運命は大きく動きます。

定次は天正13年(1585年)に大和郡山から伊賀上野20万石へ転封となり、大和国は秀吉の弟・秀長の支配下に置かれました。

秀長は順慶が築いた郡山城を受け継いで大改修し、大和郡山を豊臣政権の重鎮として発展させていきます(前述)。

一方の定次(順慶養子)はその後も豊臣政権に仕えましたが、やがて関ヶ原の戦い前後に発生したお家騒動などにより改易され、筒井家は滅亡しました(これについては次項参照) 。

こうした経緯を見ると、順慶と秀吉の関係は決して主従の絆が強固なものではなく、秀吉の天下取りに翻弄された側面もあります。

しかし順慶自身は、最後まで秀吉に叛くことなく自らの家名を一時的にでも存続させた点で、戦国大名として現実的な判断を下したとも評価できるでしょう。

筒井家の家系と後継

人物名関係・補足
1代目筒井順覚家系の始祖。興福寺一乗院に関係深い僧兵出身。
2代目筒井順弘順覚の子。南北朝~戦国初期に勢力拡大。
3代目筒井順頼順弘の子。筒井氏の戦国大名化を推進。
4代目筒井順昭順頼の子。順慶の父。早世し順慶が2歳で家督継承。
5代目(順慶の父)順慶の実父。28歳で病死。
6代目
7代目
8代目(本記事)筒井順慶大和を統一した戦国大名。郡山城を築城。
9代目(養子)筒井定次順慶の従弟。秀吉により伊賀上野へ転封。のち改易。

筒井氏は元々奈良の興福寺一乗院に属する僧兵集団の棟梁だった家系で、室町時代には俗世の武士へと転身した特殊な経歴を持ちます。

南北朝~戦国初期にかけて奈良市周辺の実力者「筒井殿」として知られ、興福寺の庇護下で奈良の都市支配にも関わっていました。

筒井順慶の高祖父にあたる筒井順覚の代(15世紀前半)にはすでに筒井城が文献に登場しており(※筒井城の初見は永享元年〈1429年〉とされます )、以後筒井氏はこの筒井城を本拠に大和国で勢力を保ちました。

戦国中期には筒井順覚→順弘→順頼→順昭と家督が受け継がれ、順昭の代に筒井氏は「大和四家」の筆頭と目されるまでに勢力を伸ばします。

順昭は松永久秀との戦い半ばで1550年に病死しますが、その遺児こそ筒井順慶でした。

こうした経緯から、筒井順慶は筒井氏第8代当主(『筒井筒』などによる)とも言われます。

順慶には実子がなく、養子として迎えた3人の男子が後継候補でした(筒井定次・定慶・慶之) 。

うち主要な跡継ぎとなったのが従弟の筒井定次(さだつぐ)です。

定次は順慶の叔父・筒井順弘の子で、順慶の妹を母とする縁戚でした。

順慶の死後、定次は名代として秀吉に拝謁し家督相続を許されます。

秀吉は前述の通り定次を伊賀上野に移封し、大和郡山には弟の秀長を入れました。

伊賀上野に入った定次は東海道筋の要衝を任され、城下町の建設や治水工事を行うなど統治に努めました。

しかし豊臣秀吉の死後、定次の家中では主家の豊臣氏に味方すべきか徳川氏に付くべきかで内紛が生じます。

特に重臣同士の対立や、定次自身が二心ある振る舞い(豊臣秀頼への奉仕と徳川家康への接近の両天秤)をしたことから、徳川家康の疑念を招きました。

その結果、慶長13年(1608年)に筒井定次は改易となり、定次と嫡男の順定は陸奥国に幽閉されてしまいます。

7年後の元和元年(1615年)、定次は切腹を命じられ、ここに筒井氏宗家(大名筒井家)は断絶しました。

この一連の騒動は「筒井騒動」と呼ばれ、徳川幕府が豊臣恩顧の外様大名を排除する一環でもあったとされています。

定次以外の順慶養子について触れると、筒井定慶(さだよし、あるいは定八とも)は定次の弟で、順慶死後に家臣の福住順弘の次男・順斎として徳川家康に召し出され、旗本1,000石をもって存続しました。

この系統は幕末まで続き、幕末の外交官で日露和親条約の交渉に携わった筒井政憲などが名を連ねています (※ただし筒井政憲は久世家からの養子で、血統上は別系統です )。

一方、順慶のもう一人の養子とされる筒井慶之については詳細が不明で、早世したとも言われます。

なお、一部資料には順慶の実子として「順正」という子が没後に生まれたとの記述もありますが、信憑性は低いとされています。

以上のように、筒井氏の家系は順慶の代で大名家としては終焉を迎えたものの、旗本筋など傍系として江戸時代後期まで家名は存続しました。

奈良や京都には筒井氏の末裔を称する家もあったとされ、郷土史研究では現在でも筒井順慶の血脈が話題に上ることがあります。

筒井氏は大和にルーツを持つ戦国大名として、興福寺との関係や「元の木阿弥」「洞ヶ峠」など数々の故事成語を残した特異な家系でした。

そうした筒井氏の興亡は、大和国における戦国乱世の縮図とも言えるでしょう。

筒井順慶ゆかりの城跡をめぐる|筒井城・郡山城・信貴山城の歴史散歩

戦国時代、大和国(現在の奈良県)で活躍した戦国武将・筒井順慶。

その足跡をたどると、数々の城がその生涯に深く関わっていたことがわかります。

彼のゆかりの三つの城跡を通して、戦国時代の大和の歴史と風景をめぐります。

筒井城跡(奈良県大和郡山市筒井町)

筒井順慶が幼少期を過ごした居城であり、筒井氏の本拠地でした。

戦国時代の混乱期にはたびたび松永久秀との戦火に巻き込まれ、1565年には松永方に奪われるものの、翌1566年に順慶が奪還。

その後、大和の有力国人たちを従える拠点として、筒井氏は戦国大名へと成長していきます。

しかし、1580年に織田信長の「一国一城令」により廃城となり、順慶は郡山城へ本拠を移します。

現在の筒井城跡は宅地や水田が広がり、遺構はほとんど残っていませんが、内堀や外堀にあたる池や水路が、当時の名残をわずかに伝えています。

大和郡山城跡(奈良県大和郡山市)

1580年、筒井順慶が信長の命を受けて築城したのが郡山城です。

それまでの筒井城を廃して新たな本拠とすることで、大和の支配体制を再編する役割を果たしました。

順慶の死後、城は豊臣秀長の手に渡り、天守や石垣、堀などが大規模に拡張されました。

特に石垣には石仏や五輪塔などが転用材として組み込まれており、当時の築城技術や文化が色濃く残っています。

現在の郡山城跡は、国の史跡に指定されており、石垣や堀が美しく保存されています。

春には約1,000本の桜が咲き誇る名所としても知られ、毎年「お城まつり」が開催され、多くの観光客でにぎわいます。

信貴山城跡(奈良県生駒郡平群町・大阪府柏原市)

標高437mの信貴山に築かれた山城で、かつて松永久秀の居城でした。

筒井順慶がこの城と深く関わったのは、1577年、松永久秀が織田信長に謀反を起こした際のことです。

順慶は織田方の先鋒として参戦し、片岡城を落としたのち、信貴山城本丸に総攻撃を仕掛けて落城させました。

久秀父子はこの戦いで自害し、大和の内乱は終息に向かいました。

現在、信貴山城跡には曲輪や土塁、堀切などの遺構が良好に残っており、山上には「信貴山城跡」と刻まれた石碑も建っています。

東西550m×南北700mという奈良県下最大級の山城跡で、歴史ファンやハイカーの間でも人気のスポット。

登山道は信貴山朝護孫子寺の境内から続いており、寺社参拝とあわせて訪れるのもおすすめです。

そのほか、筒井順慶に関係する合戦としては、1567年の「東大寺大仏殿の戦い」も特筆されます。

これは奈良の東大寺をめぐって繰り広げられた戦闘で、順慶と松永久秀が激突し、大仏殿が焼失する大惨事となりました。

また、1582年の「山崎の戦い」では順慶自身は積極的に参戦しなかったものの、その静観した態度が勝敗に影響を与えたとも言われ 、後世に有名となる逸話(洞ヶ峠伝説)のきっかけとなりました。

このように、順慶は数々の主要な城と戦いに深く関わり、大和国および畿内の戦国史に足跡を残しています。

筒井順慶ゆかりの現代の史跡・観光情報

最後に、現代に残る筒井順慶ゆかりの史跡や観光地を紹介します。

奈良県内には順慶にまつわるスポットが点在し、地域の観光や郷土学習に活用されています。

筒井城跡(つついじょうあと)

前述のとおり奈良県大和郡山市筒井町付近に位置します。

現在は住宅街や農地となっていますが、所々に「筒井城址」の石碑や説明板が設置され、散策ルートも整備されています。

近鉄橿原線・筒井駅前には「つつい歩いてマップ」という筒井城跡巡り用の案内板もあり、城の縄張り図や堀の痕跡を確認しながら歩くことができます。

主郭跡には石碑がひっそりと建ち、周辺の低地や池が往時の堀跡を偲ばせます。

筒井駅前には「順慶」という名の焼鳥店があるなど、地元では順慶の名が店名や地名に使われ親しまれています。

筒井順慶歴史公園(五輪塔覆堂)

大和郡山市長安寺町にある筒井順慶の墓所。

平端駅(近鉄橿原線)から徒歩5分ほどの場所に位置し、五基の五輪塔とそれを覆う小堂(覆堂)があります。

覆堂内部中央に順慶公の五輪塔が据えられ、脇に一周忌供養の石灯籠が残っています。

この覆堂は江戸時代初期に建立されたもので、宝形造本瓦葺きの小堂ですが意匠に優れ、1944年に国の重要文化財に指定されました。

普段は内部非公開ですが、外から格子戸越しに五輪塔を拝観できます(内部見学は市役所への要申請)。

静かな公園として整備され、春には周囲に桜も咲き、歴史ファンが訪れるスポットとなっています。

郡山城跡公園

大和郡山市中心部にある郡山城跡は、市民憩いの場であり観光名所。

石垣と堀がよく残り、天守台には登閣できる展望施設が設置されています(2017年完成)。

園内には再建された櫓(追手門向かいの多聞櫓風建物など)や、移築現存する櫓門「追手門(旧称:梅林門)」があります。

毎年3月下旬~4月上旬には「郡山城跡お城まつり」が開催され、夜間ライトアップされた桜と石垣が幻想的な景観を生み出します。

郡山城跡は日本さくら名所100選にも選定されており、約1,000本のソメイヨシノやシダレザクラが咲き誇る様子は圧巻です。

また、石垣には先述のように石仏が多数埋め込まれており、「転用石(ストーンヘンジ)」として注目する見学者もいます。

城跡近くの郡山城史料館(郡山城ホール内)では筒井順慶や豊臣秀長に関する資料展示が行われることもあり、訪問の際にはぜひ立ち寄りたいところです。

その他周辺ゆかりの地

筒井順慶に直接関係する観光地としては上記が中心ですが、関連人物に目を向ければ松永久秀終焉の地・信貴山城跡も見逃せません。

信貴山城跡へは生駒郡平群町の信貴山朝護孫子寺から登るハイキングコースでアクセスでき、山中には「松永久秀公自害の地」碑や堀切・土塁跡が残っています。

山頂からは大和盆地を一望でき、戦国ロマンを感じられるスポットです。

また奈良市域では、順慶が東大寺大仏殿の再建に寄与した(焼失させてしまった張本人でもありますが)ことから、大仏殿裏手の史跡案内に順慶の名前が登場することもあります。

奈良県立博物館には順慶寄進と伝わる古文書が所蔵されているなど、研究対象としての遺産も点在しています。

まとめ

以上のように、筒井順慶は戦国乱世の大和を舞台に活躍した武将であり、その遺した足跡は現代の奈良県各地で確認できます。

大和郡山市を訪れた際は筒井城跡や順慶の五輪塔、郡山城跡を巡り、戦国大名・筒井順慶の軌跡に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

その生涯を通じて培われたエピソードの数々は、地域の歴史を彩る興味深い物語となって私たちに語りかけてきます。

参考文献・出典リンク一覧

▷ 筒井城跡(大和郡山市 筒井町)

▷ 郡山城跡(大和郡山市)

▷ 信貴山城跡(奈良県生駒郡平群町〜大阪府柏原市)

▷ 筒井順慶の人物像・略歴

 

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