藤堂高虎(とうどうたかとら)は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将で、徳川家康との深い結びつきがその生涯を大きく彩りました。
秀吉の家臣として活躍していた彼が、家康に忠誠を誓うようになったのは、時代の移り変わりを見抜く鋭い先見性と判断力があったからです。
築城術や都市計画、戦場での指揮における高虎の才能は、家康政権下で遺憾なく発揮され、江戸時代の基盤を形作る一助となりました。
以下では、大阪冬の陣と夏の陣における高虎の活躍を中心に、彼の人生を振り返ります。
家康に傾倒し、信頼を勝ち取った藤堂高虎
藤堂高虎が徳川家康に仕えるようになったのは、豊臣秀吉の死後のことでした。
もともと秀吉の家臣として武功を挙げ、厚遇されていた高虎でしたが、時代の流れを見極め、豊臣家の衰退と徳川家の台頭を察知し、家康のもとに転じました。
この判断により、彼は家康から絶大な信頼を得て、多くの築城や戦場で重要な役割を担うことになります。
その中でも象徴的な築城事業が、伊賀上野城の建設です。
この城は、豊臣家を牽制する重要な拠点として設計され、壮大な天守を備える予定でした。
しかし、1612年に発生した大風雨で建設途中の天守が倒壊し、180人以上の犠牲者を出すという悲劇が起こりました。
この出来事は高虎にとって痛手となりましたが、彼の築城技術はその後も高く評価され、江戸時代初期の築城スタイルに大きな影響を与えました。
大阪冬の陣での奮戦
慶長19年(1614年)、豊臣家と徳川家の対立がついに武力衝突に至り、大阪冬の陣が勃発しました。
この戦いで高虎は徳川方の先鋒を務め、家康の期待に応える形で戦場に立ちました。
豊臣方からは、「かつて秀吉の家臣でありながら、家康に寝返った裏切り者」として激しい罵声を浴びせられたと伝えられています。
それでも高虎は動じることなく、豊臣方の攻撃を巧みにかわし、家康の戦略を支える役割を果たしました。
冬の陣では大規模な戦闘を避けつつ、豊臣軍を疲弊させる戦略が取られ、高虎の部隊も大きな被害を受けることはありませんでした。
しかし、翌年の夏の陣では状況が一変します。
大阪夏の陣と八尾の戦いでの被害
元和元年(1615年)の大阪夏の陣は、豊臣家と徳川家の最終決戦となりました。
この戦いで藤堂高虎は井伊直孝とともに先鋒を務め、5月6日の八尾・若江の戦いでは、長宗我部盛親軍と壮絶な戦闘を繰り広げました。
八尾は湿地帯であり、地形の悪条件が戦闘に大きな影響を与える場所でした。
高虎の部隊は奇襲を試みましたが、地形の制約に加えて長宗我部軍の頑強な防戦により戦局は長期戦となり、激しい死闘が繰り広げられました。
この戦闘で高虎は300人以上の兵士を失い、多くの犠牲者を出しました。
その中には高虎の甥であり、重臣でもあった藤堂高刑や、同じく重臣の藤堂氏勝も含まれていました。
藤堂高刑は高虎の姉の息子であり、藤堂家の将来を担う重要な人物でした。
高刑は豊臣方との戦闘の中で奮戦しましたが、長宗我部軍の猛攻を受けて戦死します。
一方の藤堂氏勝は、元は長井氏の出身で、高虎の家臣となりその才覚を認められて藤堂姓を名乗ることを許されました。
彼もまたこの戦いで戦死し、藤堂軍にとって大きな痛手となりました。
この戦闘は藤堂軍の士気に大きな影響を与え、高虎は翌日の戦闘で先鋒を辞退せざるを得ない状況に追い込まれました。
このように、八尾の戦いでの被害は藤堂軍にとって非常に大きなものでしたが、それでも高虎の指揮による奮戦は幕府から高く評価され、戦後に5万石の加増が与えられました。
家康と藤堂高虎の逸話からみれる深い絆
藤堂高虎がいかに徳川家康を尊敬し、忠誠を誓っていたかを象徴する逸話が、家康の臨終の際に起こりました。
徳川家康はその晩年、高虎を深く信頼しており、死を目前にした臨終の床でも高虎に語りかけたとされています。
家康は「もう会えなくなるな」と寂しげに語りかけました。
この言葉を受けて、高虎は「いえ、あの世でお目にかかれます」と返します。
しかし、家康は「お前とは宗派が違うから無理だ」と返答しました。
高虎はこの一言を聞くや否や、その場に居合わせた天海僧正を導師として天台宗に改宗する決断を下します。
宮下英樹「センゴク」
高虎はそれまで先祖代々の宗派を守り続けていましたが、この改宗は即座に行われました。
この行動は、高虎の家康に対する尊崇の念と忠誠心を何よりも象徴しています。
普通であれば、自らの信仰や家の伝統を捨て去ることには大きな躊躇があるはずですが、高虎は一切の迷いを見せることなく改宗を決断したのです。
家康死後の高虎の役割
家康の死後も、高虎はその忠誠心を変わらずに徳川家を支え続けました。
将軍秀忠、そして三代将軍家光に至るまで、高虎は幕府内で重きをなす存在となり、「ご意見番」として信頼される立場を築きます。
高虎が最晩年まで築城事業や幕府の政策に関わり続けたのも、彼が単なる武将としてだけでなく、家康の遺志を受け継ぎ、幕府の礎を守る存在として認められていたからでしょう。
逸話が語る高虎の忠義
この逸話は、高虎が単に戦場で活躍した武将や築城の名手であるだけでなく、人間としていかに家康を慕い、信頼していたかを物語ります。
その忠誠心は宗派を超え、家康の死後も変わることなく、江戸幕府を支えるための行動に結びつきました。
この逸話が伝える高虎の姿は、徳川政権を支えた武将の中でも特に異彩を放つものです。
徳川幕府のスタンダードとなった高虎の城づくり
藤堂高虎の築城術は、江戸幕府の基盤形成に大きく寄与し、その後の城郭政策にも影響を与えました。
豊臣家の滅亡後、徳川家康とその後継者である秀忠の政策に従い、高虎の築城活動は「一国一城令」と「武家諸法度」により制約を受けることになりますが、それでも彼が築いた城は、江戸時代の城郭設計におけるスタンダードを確立しました。
一国一城令と築城の制限
元和元年(1615年)、豊臣家滅亡後に徳川秀忠が出した「一国一城令」は、戦国時代に多数築かれた城や砦を破却し、各大名が保有できる城を一つに限定するものでした。
この政策は、大名の軍事力を抑制し、幕府への忠誠を強化する狙いがありました。
特に、西国大名に対して適用されたこの令により、各地の大名は居城以外の城や砦を破却せざるを得なくなりました。
高虎もこの命令に従い、建設中だった伊賀上野城と津城の修築を中止しました。
伊賀上野城では、本丸の石垣が完成せず、一部が土塁のままとなったのは、この政策の影響によるものとされています。
完成を目指していた壮大な天守計画も取りやめられ、以後、大規模な新築や増築は行われなくなりました。
このように、一国一城令は高虎の築城活動にも大きな制約を与えましたが、彼の築城術そのものはその後も多くの場面で活かされていきます。
豊臣大坂城から徳川大坂城へ
高虎の築城技術が最も顕著に発揮されたのが、豊臣時代の大坂城を改修し、新たに徳川の大坂城を築くという壮大な事業でした。
この城は、豊臣の威光を完全に消し去り、徳川家の支配を象徴する城として設計されました。
高虎は縄張り設計を担当し、豊臣時代の大坂城の石垣を埋め、新たに徳川の石垣を築き直しました。
これにより、単なる改修にとどまらず、全く新しい徳川の象徴としての城郭が誕生しました。
高虎が手がけた大坂城の石垣は、堅牢かつ美観を備えたもので、防御性を高めるだけでなく、幕府の権威を視覚的に示す重要な役割を果たしました。
この大坂城は、江戸時代を通じて西日本の支配拠点として機能し、その威容は徳川家の権威を象徴する存在となりました。
日光東照宮の縄張りと徳川家康の霊廟
高虎は築城術を活かし、徳川家康の霊廟である日光東照宮の縄張りも担当しました。
この霊廟は単なる宗教施設ではなく、徳川家の正統性と権威を示す政治的な意義を持つ場所でした。
高虎の設計は、家康の生前の意志を尊重しながらも、幕府の威光を体現するものとして設計されました。
日光東照宮の構造は、築城術の応用とも言えるもので、防御的な要素と装飾的な美しさを融合させたものです。
高虎は、この縄張り設計を通じて、築城術の枠を超えた建築技術の高さを示し、徳川家の基盤を精神的にも支える役割を担いました。
二条城・淀城・上野寛永寺での貢献
高虎の築城活動は、京都や江戸にも及びます。
二条城や淀城では、幕府の拠点としての防御性だけでなく、徳川家が京都や西日本における支配をアピールするための政治的な意図も含まれていました。
二条城は特に将軍の宿泊地としての機能を持ち、その構造の堅牢さと豪壮さは、幕府の権力を京都に示すための象徴的な役割を果たしました。
また、上野寛永寺の造立や増築にも関与し、寺院建築においてもその技術を発揮。
これらの事業を通じて、高虎は江戸幕府の築城術を形作るだけでなく、都市設計や宗教建築の分野にもその影響を広げました。
まとめ:江戸幕府を支えた築城の天才、藤堂高虎
藤堂高虎は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍し、豊臣秀吉から徳川家康へと主君を変えながら、その忠誠と才能を発揮した稀有な武将でした。
彼の人生は、築城術、戦場での活躍、そして主君への忠誠心という三つの軸で語られます。
高虎が築いた城は、ただ堅牢であるだけでなく、防御性と効率性を兼ね備えた設計が特徴で、特に石垣の技術や縄張りの工夫が江戸時代の城郭設計におけるスタンダードとなりました。
伊賀上野城、津城、大坂城などで見られる直線的な石垣や広大な堀の設計は、後世の大名たちに広く模倣され、江戸幕府全体の築城基準に大きな影響を与えました。
また、徳川家康の信頼を勝ち得た高虎は、築城術だけでなく、幕府の象徴的施設である日光東照宮や上野寛永寺の縄張りにも関与し、築城を超えた分野でもその才能を発揮しました。
家康臨終の際、天台宗への改宗を即決した逸話は、高虎がいかに家康を敬愛していたかを示し、その忠義の深さを今に伝えています。
大坂冬の陣・夏の陣では、先鋒として奮戦しながらも甚大な被害を受けるなど、武将としての苦難もありましたが、それを乗り越えて幕府内で重きを成し、将軍秀忠、家光に至るまで信頼を得続けました。
最晩年まで幕府の築城事業に関与し続けた高虎は、寛永7年(1630年)に75歳で没しました。
その生涯を通じて生み出した鉄壁の城は、徳川家の権威を象徴する存在として、江戸時代の平和を支える基盤となりました。
彼が築いた高虎式の城は、幕府のスタンダードとして江戸時代を通じて模倣され続け、現代でもその技術やデザインが高く評価されています。
藤堂高虎の人生は、築城を通じて時代を作り、徳川家康の信頼を受けた武将として、戦国の乱世から江戸の泰平を象徴するものです。
その遺した城郭と忠義の精神は、日本の歴史に深く刻まれています。
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